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5月 30

卑弥呼とホームズのヴァイオリン事件簿〜第11回「指揮棒とわたし」


こんにちは! ヴァイオリン弾きの卑弥呼こと原田真帆です。急に暑くなったり思いがけず冷えたり、体調が心配になる季節ですね。

前回のコラムでは「指揮を学ぶこと」と題して、わたしがこれまでに受けてきた指揮の授業など、指揮者ではない人が指揮を学ぶことについてつづりました。

今回はそのつづきで、わたしがもう少し指揮の勉強に踏み込んでみたお話をしたいと思います。

 

将来の夢はなんですか

いざそこに立ってみると、オーケストラの奏者として見上げるよりもずっと高い場所のように感じて足がすくみました。なんとか棒を持った腕を上げてみるものの、空中に浮かべた自分の手がとても不恰好に見え、なによりその手は震えています。

わたしは学校の授業を飛び出て、個人で指揮の講習会に参加してみることにしました。これは大学2年生の冬のことです。

記憶の限りでもっともはじめに持った将来の夢は指揮者でした。幼稚園で将来の夢をテーマに版画を作っていた日、燕尾服を着て指揮をする自分を描いたわたしに、先生は「まほちゃんはヴァイオリンをやっているんだもんね」と言葉をかけてくれました。しかしそう言われて初めて、あれ、わたしヴァイオリンはどうするつもりなんだろ…と思ったことをはっきりと覚えています。

うーん、やめるっていうのは想像がつかないなぁ…自分はどちらをやりたいのだろう…そもそも指揮者ってヴァイオリンやめないとなれないの? そんなことないんじゃないかな…うーん、時が来たら考えればいっか! 今は目の前にあるヴァイオリンをがんばろう。

そう考えたのは、幼稚園の年中さんのときでした。未だに不思議なのが、当時のわたしはどうして指揮者を知っていたのかということ。その頃のわたしはまだ生の指揮者を見たとこがないはず、テレビか何かで見ていたのでしょうか。ただ少なくとも当時すでに母によって後期ロマン派の交響曲を聴かされていたのは確かです。通園時の車で聴くブルックナーをとても心地よいとは思っていなかったはずなのに、指揮者に憧れを抱くとは何の因果だったのでしょうか。

その後はしばらく、夢として「指揮者」を語ることはありませんでした。版画を彫ったときにヴァイオリンを忘れていたことが、自分にとっては少なからずショックでもあったのです。小学校では折に触れ将来の夢を書く機会があるものですが、一貫して「ヴァイオリニスト」と書くことで、自分に音楽家を目指すための覚悟を決めさせようとしていた気がします。点字にはまって福祉に興味を持ったときは唯一「目が見えない人や耳が聞こえない人の役に立ちたい」と書きましたが、これは広い意味ではヴァイオリンを通しても叶えることができるものだと考えます。

“幻の転科”制度

「指揮者」という野望はそののち、二度ほど復活するタイミングがありました。一度目は中学時代で、これがなかったら二度目もなかったろうなとは思います。ただ中学生当時、シャイなわたしはこの夢について、せいぜいごく親しい友達にこっそり打ち明けたり、親子ゲンカで問い詰められたときに泣きじゃくりながら小声でカミングアウトするのが精一杯。裏返せば、この夢を実現したいと誰かに乞い願うほどの真剣味はなかったのだろうな、とも思います。

だから二度目に野望が自分の中に復活したとき、わたしは今度こそ行動に移さなければいけないと思いました。大学1年生のある日、しみじみ学生便覧を読んでいたら(恐らく部屋の掃除の途中で道草を食うパターン)、わたしは興味深い一文を見つけました。基本的に転科は認めない。ただし、学部3年次の指揮科への転科のみ認める…だって?

藝大の指揮科はかつて入学生を受け入れず、学部3年で他科から編入するシステムでした。その伝統から現在も校則上唯一認められている転科が「他科から指揮科」ルートなのですが、近年これを適用している人はほとんどいないようです。わたしはそんな“幻の転科”に関する規則を読んで、運命かもしれないといういらぬ勘違いをします。師事している澤和樹先生は当時指揮科主任を務めていらしたので、わたしは次のレッスンのときにうかがってみたのです。

「先生、指揮科への転科って難しいんですか」
「興味ある?(ニヤニヤ)」

そのとき先生はありがたくも、本気なら指揮の先生にご紹介くださると言ってくださったのに、わたしはそこで怖気づいたのです。きっとその日のレッスンも「満足に弾けなかった」という悔いがあったのでしょう。ヴァイオリンすらちゃんと弾けないやつが指揮なんて言いだしたら、逃げだって言われちゃうな、なんて余計な心配をし、またそのとき「転科するよりも学部はヴァイオリンで出たら」というご助言もあり、わたしは“幻の転科”を考えるのはやめました。

そこから真剣に指揮の勉強をするという手もあったのに、それをしなかったのは自分の怠慢でしかありません。本当の意味でそれに気づいたのは学部2年生の冬に学外の指揮の講習会に参加したときでした。

いざ講習会

いざ講習会初日。会場の上野学園大学にはこのとき初めてうかがいました。朝はいつも通り上野駅に着いたら、藝大と反対の方角に向かいます。背中に楽器がないのは丸腰のように感じられて、初めての道を歩きながら、スコアを入れてきたキャリングケースを思わず強く握りしめました。

受付で受講生と書かれた名札を受け取ると、聴講生として講座を聞きに来ている人から「あ、この子は振る側の子なんだ」という視線を感じます。その期待の眼差しに心が折れそうになったのはきっと、すでに自身の勉強不足を感じていた証だと思います。なんと情けないのでしょうか。

わたしはこのときはじめて指揮の講習会というものに参加して、たくさんの驚きと発見を前に、知識欲が高まったときに起こる静かな興奮を感じていました。世の中には指揮法の意味でも指揮者の意味でも、指揮を必要とする人がたくさんいること。独学で技術を身につけてとても上手に振る人がいること。つまり指揮には努力の有無がもろに出る、ということ。

講習会に参加してみて、一番強く感じたのは技術不足以上に勉強不足でした。はじめてで勝手がわからなかったとは言っても、もっと勉強していけることがあったはず、自分の持てるポテンシャル全てを駆使して勉強に当たったか? 否、自分の予習は通り一遍にも至らなかった。しかし落ち込むというよりは、目が覚めた思いでした。

指揮者という夢を自分の中に掲げ続けるかどうかに関しては、正直に言えばこのときからずっと揺らいでいます。講習会には本気で指揮者を目指す人も来ていて、非常に刺激を受けました。そしてその真剣さを近くで見ればこそ、自分の覚悟の甘さも感じれば、純粋に自分の技術不足も知りました。しかしそれは、自分に足りないものが具体的にわかったからこそ感じるもの、そこからスタートラインを目指すこともできます。

その一方で、一度指揮者の視点で音楽を勉強してみたら、その後ソロの勉強も室内楽の勉強も何か圧倒的に捗る感覚が自分の中にありました。矛盾するようですが、指揮の勉強をしてみたら、もっとヴァイオリンでやりたいことが出てきたのです。

だから、ある意味でわたしは幼稚園児の頃に出した仮の結論に戻ってきてしまいました。今は目の前にあるヴァイオリンをがんばろう。ヴァイオリンを通してもっと音楽を深く深く学んでいったらいい。もし大人になってふと、この夢が再び火を灯すときが来たら、今度こそ真剣に勉強してみよう。わたしは決断を先延ばしにしたとは思いません。なぜなら、これもある種の決心だから。

そしてこの決心をするにあたり、忘れずに心に留めておこうと思ったのが、この講習会の講師である下野竜也先生の言葉です。

演奏家のひとは小さいときからたくさんたくさん練習を積むでしょう。指揮だって同じで、その積み重ねをすっとばして振ろうとするとうまくいかない。もし指揮をしたいと考えたら、楽器を始めたときを思い出してゼロから積み上げていかなくちゃ。

打ち上げの席で先生からぽろりと出たのこの言葉は、特にわたしだけにおっしゃったわけではありませんが、わたしにとってこのときの3日間の講習会における学びを象徴する言葉だったように思います。

ここまで読んで、特にわたしの身近な友人などはこう思うかもしれません。「そんな決心をしたんじゃあ、なんでそのあともうっすら指揮の勉強をしているの?」それは、より音楽を深く知るための手段でもあり、いつか野望を蒸し返す日のための些細な備えです。その野望をもう一度持つ日が来るのかどうか、わたしにもわかりません。もちろん、甘くないのは重々承知しています。

 

 

maho_harada文・絵:原田真帆
栃木県出身。3歳からヴァイオリンを始める。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を経て、同大学音楽学部器楽科卒業、同声会賞を受賞。第12回大阪国際音楽コンクール弦楽器部門Age-H第1位。第10回現代音楽演奏コンクール“競楽X”審査委員特別奨励賞。現代音楽にも意欲的に取り組み、様々な新曲初演を務める。オーケストラ・トリプティークのメンバー。これまでに萩原かおり、佐々木美子、山﨑貴子、小川有紀子、澤和樹、ジェラール・プーレ、小林美恵の各氏に師事。現在英国王立音楽院修士課程1年在学中、ジャック・リーベック氏のもとで研鑽を積んでいる。

 

 

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