卑弥呼とホームズのヴァイオリン事件簿〜第21回「卑弥呼の進級試験」


こんにちは、ヴァイオリン弾きの卑弥呼こと原田真帆です。夏の日本への帰省を経て、ただいまロンドンにて新年度を待っているところです。今回のコラムでは、この夏に終えた博士課程一年次の総まとめに当たる、プレゼンテーションのことをお話ししたいと思います

 

 

 

・進級判定試験

博士課程の1年次は、6月末の年度末試験で締めました。これは1年間の研究の進捗をプレゼン形式で教授陣に向けて発表するものです。学生には45分間の発表時間が与えられ、その後15分ほど、試験官とディスカッションをします。

さて、45分しゃべり続けるというのは、結構なボリュームですよね。しかしわたしが試験内容を知ったときに真っ先に思ったことは、45分の間に自分の伝えたいことをあますことなく盛り込めるだろうか、という不安でした。

それもそのはず、博士課程の年間の授業の中では、先輩方のプレゼンをみんなで見るシーンがなんどもありましたが、教授との質疑応答の時間にはそれはもう鋭い質問が飛んできます。語り口はどの先生も優しいのですが、学問の厳しさをありありと感じる瞬間です。教授の質問に答えようとして、発表者が言葉に詰まってしまうシーンも少なくなく、その悔しい表情に「今うまく言葉を紡げないだけで、もっと言いたいことあっただろうな」と思わされます。

だから、わたしは45分間でいかに“明瞭な研究報告”をできるかという点を強く意識しました。もちろん発表原稿の下書きの段階で、時間オーバーになるからと泣く泣く削った箇所もあります。でも発表の裏側には、何を質問されても答えられるようにデータを用意したし、発表自体も“筋を通す”“矛盾がない”“現在わかっていることと今わからないことを区別する”ことに注力しました。

結果として、試験は「進級OK/追試するけど進級OK/留年」の3種類しか判定を出さないので点数をきにする必要はありませんが、教授からのみっちりと書かれたフィードバックが来て、次年度の課題が見えてありがたく思います。自分の指導教官からは「もちろん表現の適切/不適切を整えるためにわたしは文章の添削をしたけれども、とはいえあなたの発表は基本的に書かれていることが大変クリアだったね」と言っていただき、目論見は達成されたようでした。

 

・プレゼンテーションのお支度

ここではプレゼンの具体的な内容はさておき、どのように発表の準備をし、どのように本番を運んだのか綴りたいと思います。

春先からプレゼン原稿を書き始めました。教授と一緒に調べたところでは、人類が45分間で話せる英単語数は、ゆっくり話す場合で4500語。発表は途中で演奏のデモンストレーションも必要だったので、3500語あたりを目標に設定しました、が、まずは書きたいことを全て書き出してから削ろう、増やすより削るほうが簡単だし、何よりわたしは削るの得意だから、と教授がウインクするので、わたしは4月のイースター休暇中からうんうん唸りながら下書きを始めます。

とりあえず書きたいトピックを箇条書きで思いつくままに紙になぐり書きをして、それをパソコンでタイプし直して、さらに項目ごとに中身にしたいことをとりあえず単語だけでも打って…そう、いきなり序文なんて書けたものではありません。特に書き出しのうちは日本語と英語がごちゃごちゃに混ざっていたので、教授との面談のときには「ごめん先生このセクション日本語だったわ」事件がたびたび発生していました。それを笑っておもしろがってくれる先生だから救われたのですけれど。

最終的に「とりあえず全部書いたわ!」という感触を得た段階で7000語近くありました。それを先生に読んでもらって、より良い表現を探していきます。英語の出来不出来を気にしていたわたしに、先生が添削しながら言ったのはこんなことです。「これはあなたの英語の能力に関係なく、博士課程の始めたばかりの生徒みんなに共通して伝えているのだけど、事実なのか、それともあなたの考察なのかをはっきりさせてほしい。たとえばこの部分、この本の著者はここまでは書いているれど、この先のことはあなたの推察でしょ。わたしの添削ではこういう部分を丁寧に洗うから」

そうして直してもらった第2稿を、さらに精査して段落を削ったりしながら、最終的には5700語にまとめました。当初の目標単語数をかなりオーバーしていましたが、平均的な速度なら45分間で5800語読めるとも言われていますし、デモンストレーションの時間を短縮したり、スライドの力を取り入れたりして、何とか45分間に収まる兆しが見えました。最終原稿は第4稿だったと記憶しています。

 

・読みの猛特訓

原稿を書き終えたところで発生するのは「読み」の問題です。当初から英語での音読がスムーズにできない自信しかなかったので、予行練習で噛むところまでは想定内、ゆえに原稿を本番1週間前までに書き上げておいたのですが、しかし想定よりはるかに多く“噛む”自分に絶望したのもまた1週間前でした。そこからわたしの猛特訓が始まります。

実を言えば、イースター休暇明けには先生、「パワーポイントなくていいよ〜」と言っていたのに、原稿がヘビーで45分に収まるか心配、とわたしが言ったら「本の引用はスライド作って見せちゃえば時短じゃない?」という発言を本番3日前にくださったので、3日でスライドを作る羽目に。幸い卑弥呼はパソコンが好きなので作ること自体は苦ではなかったのですが、読みのプレッシャーに押しつぶされそうな心理状態で夜なべをしてスライドを動かしながらしゃべる練習するのは、かなり肝が冷えました。

もともと音読という行為自体は得意なほうですが、今回は母国語でない上に何より今まであまり馴染みがなかった英単語が多く含まれていたために、その難易度はうなぎ上りに。ここで登場するのはネイティヴの力! 現在わたしはイギリス人のご家族のお宅でホームステイをしております。そこでホストペアレンツに相談し、ホストマザー(わたしの中の通称:ままさん)に音読してもらって、わたしがそれを録音して、その音源をお手本に練習することにしました。

さらには学校の友人に協力してもらい、実技試験もさながらの通し練習をおこない、実際の発表を見てもらいました。ときどきとんでもない勘違いを発動するわたしの癖はここに来ても健在、あごを意味する「jaw」を何の疑いもなく「ジャー」と読んで、友人に「ジョーでは…サメのジョーズ!」と直してもらったのは、自分傍ら痛いわ! な一幕でした。

加えてプレゼンテーションの中ではベートーヴェンのクロイツェル・ソナタの冒頭を、3種類の運指で披露する予定で、クロイツェル・ソナタといえばその冒頭こそが難しいと知られているわけで、身の程知らずも良いところです。英語を30分ほど発し続けたあとで唐突に楽器を構えて最初のワンフレーズを弾くなんて芸当は、当然ながら今までにしたことがないような経験でした。それでもなお、楽器の練習より音読の練習に多くの時間を割いた試験前夜でありました。

 

・そして本番

試験の日は若干暑くて、着ようと思っていたサマースーツでも汗を書きそうな予感が太陽から感じられた目覚めでした。考えてみたら自分の人生の中で最後にプレゼンテーションをしたのは、高校時代の情報の授業の中でのこと。ある意味で教育実習でおこなった授業もプレゼンテーションに近いものがあるかもしれませんが、試験部屋に設置された大きなスクリーンに自分のPCをつなぐ瞬間はどきどきしました。

試験官の先生方に原稿の複製を手渡し、スライドをスクリーンに映し、楽器をいつでも弾ける状態にして、本番開始です。「暑いからそんな無理してジャケット着なくて大丈夫だよ!」と先生に言われましたが、ジャケットを着たほうが緊張が落ち着くのできっちりボタンを締めてわたしはプレゼンを始めました。多少は噛んでしまいましたが、猛特訓の甲斐あって、全体的には堂々とした発表をできたと思います。

しかし本番で唯一ひやっとしたのが、試験官のひとりからの思いがけない問いかけです。中断されて質問を受けることまでは覚悟していましたが、まさか「クロイツェル・ソナタの冒頭、こういうフィンガリングで弾いてみるとどうなる…?」とその場で新しい運指の提案を受けようとは…! 何と、これは事前に思い至らなかった運指だ! という衝撃と同時に、発見に対する喜びもあり、でもやっぱり事前に発見できなかった悔しさも感じたのであります。

楽器の構え方の分析を解説するシーンで、楽器をいちいち下ろすのが面倒になって、ついつい顎で楽器を挟んだまま、左手でスライドの操作をして、右手に持った原稿を読み始めた自分には、内心笑ってしまいました。リハーサルなどのシーンでは楽器を持ったまま話すなんて普通ですけれど…客観的に考えたら顎を固定したまま顎の開閉をするなんて謎にハイスキルですよね。

終えたあとの、清々しさったら! その日は先の「さめのジョーズ」を教えてくれた友人が、兼ねてからわたしが食べたいと思っていた、デパート・ハロッズの食品売り場にいる“パスタ・エヴァンジェリスト”が注文してから茹でてくれる生パスタで労ってくれました。夏至直後のロンドンは9時を過ぎてもまだ明るくて、いつまでも歩いていられそうな気候です。結局40分ほどかけて学校からハロッズまで歩ききってしまったわたしたちのおしゃべりはその後止まることを知らず、すっかり日が暮れて帰ろうかと時計を見た頃にはすでに10時近くでした。

 

・どうなる新年度

音楽で博士課程をすること、その一端が少しでもお伝えできれば、此れ幸いであります。わたしの試験のあとには、同期の作曲家ふたりがプレゼンをしていました。彼女たちは卒業時には自分のテーマに沿った作品を1時間分添付した論文を提出するわけで、一年次の試験でもいくらか作品を発表したはず…二年次になると、一年次の期末試験でのプレゼンをベースにして在校生に発表する機会があるので、わたしも友人の発表を見る日が来るでしょう。わたし自身もどこかで発表の場を持って、いろいろな意見をもらうことを楽しみにしています。

来る新年度は、わたしにとって新しい挑戦がいくつかあります。次回はそのことについて書けるかな…? と思いながら、この項を締めたいと思います。また近いうちにお会いいたしましょう!

 

 

 

文・絵:原田真帆
栃木県出身。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、同大学器楽科卒業、同声会賞を受賞。英国王立音楽院修士課程修了、ディプロマ・オブ・ロイヤルアカデミー、ドリス・フォークナー賞を受賞。2018年9月より同音楽院博士課程に進学。第12回大阪国際音楽コンクール弦楽器部門Age-H第1位。第10回現代音楽演奏コンクール“競楽X”審査委員特別奨励賞。これまでに萩原かおり、佐々木美子、山﨑貴子、澤和樹、ジェラール・プーレ、小林美恵、ジャック・リーベックの各氏に師事。