アンデパンダン展参加レポート

アンデパンダン展第1夜出品:ロクリアン正岡

11月29日、日本現代音楽協会主催のアンデパンダン展、私も出品したが——

1)それはひとまず置いて全体的な印象。

新しい息吹を感じさせるものだった(お客の総数は 184人/265席 で、まあまあの入りであった)。

まず、従来の「楽曲展示のための演奏」よりも「作品を素材とした演奏披露」の台頭ぶりが強く印象付けられた。

中でも「演奏披露」への“好感”に強く寄与したのは河内琢夫氏の「ソナタ・パシフィカII」と浅野藤也氏の「独白」であった(その点、森田泰之進氏の「瞬息」は、尺八一本の生演奏に任せなかった不徹底さが惜しまれる)。

人間の聴覚を外界との接触器官ととれば、その感覚としての機能に集中的に作用して豊かな体験を与えるのが本来的かもしれない。概念化を義務付けられる“言葉”なんかではなく、“音楽”なのだから。

戦前戦後を通して、とくに昭和の時代に西洋の絶対音楽を芸術音楽、とりわけ作曲力を示す純粋音楽作品として理想化した多くの作曲家たちは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三大巨匠はもちろんのこと、ブラームスやシェーンベルクらを彼らの高弟と見てそれに続こうと努力を重ねていた。クラシック音楽作曲法の主流に学び洋才獲得に専念する中、その技法に飼いならされるペット(あるいは、調教馬)のような心が育って行ったのも当然の理屈なのだ。そんな“擬態心”は自分(作曲家各位)の霊魂とどのような関係にあるのだろうか?

一方、演奏家ならば擬態の限りを尽くして演奏技法を心身両面に染み渡らせるのが成功への道であろう。「日本人だからといって和魂洋才(これ自体が矛盾を孕んだ概念だが)なんて甘い。さりとて洋魂洋才は無理。そう、“無魂”洋才で行くが一番!」というわけだ。

西洋クラシック音楽こそがグローバル化する音楽の基本であり、音楽の才能とか運動神経とか器用さとかは洋の東西を越えた普遍的なものだ。豊かな感性や美意識だってそうだ。

「いくら生まれながらのものだからといって狭い自分の個性の殻に篭っていては心身にも良くないのではないか。霊魂がどうした?え!?音楽は現象だ、感性だ、瞬間芸術だ!」と。

こう考えてくると音楽を担うのは演奏行為であり卓越したプロの演奏家なのだ。演奏行為こそが鑑賞者の耳に快感と豊穣な体験を齎すのだから、作曲家はそのための資材(素材)を提供する下請け業者であることを自覚しなければならない。

我ら現音の作曲家がますます演奏者たちに謙(へりくだ)りつつあるのは、理の当然なのではないだろうか?

A)はてさて、されど個性、されど霊魂なのではないか?

B)神なんていないのだから霊魂なんてものも人間の概念思考がでっち上げたものに過ぎないのじゃないか?

A)そういう汝も自身の意識は否定すまい。

B)意識はそれこそ無色透明であるのが良く、無個性極まりないものであってしかるべきでは?

A)意識がなければ痛みも諸感覚も内的現象も外界も、そのご本人にとっては無に等しい。

B)いや、もともと痛みや感覚そのほか、内にも外にも何もなければ意識云々以前に無に等しいじゃないか!え!

A)その無こそがポイントなんだ。意識の意識たる所以は、その“無”という在り方にある。常にそれ自体として無化する働きこそが、あーだこーだの個別的事象以前に、時間の持続や空間の広がりを我々一人一人に齎してくれるのである。

B)何言うか?時間空間がなければ宇宙もなく万事万象はなく、したがって我々もなく意識もない。それだけのことさ。

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このあとは、またLMHP(ロクリアン正岡の哲学のページか批評のページで続けることになるので、くれぐれもよろしく!)

*なお、楽譜はLMHPに、動画は演奏者ご両人の了解を得てユーチューブに公開しております。