フォーラム・コンサート レポート

フォーラムコンサート第二夜の全楽曲を何度も鑑賞することで息づく我が生死の被膜                                              ロクリアン正岡

 録画映像の配信継続のおかげで我が内なる芸術誕生や哲学衝動の仕掛けがより見えてきた。協会に深謝!
「いつまでもこの世で幸せに生きてやる!」という燃え盛るような生き物衝動。それが一番強いのにいずれ死ぬように出来ているし、その認識を堅持している矛盾体、それが我々人間だろう。
 ミイラ?生体の冷凍保存?無駄な抵抗はやめた方が良いと私は思う。
 火葬され灰になったらそれで自分は消滅してしまう?そう簡単に決めつけるものじゃないと私は思う。
 唯脳論をはじめとする唯物論はこの世のことしか分かろうとしないが、人々はそれを安易に許す。それはあまりに真面目すぎないだろうかと私は思う。
 以上のすべては、人々の持つ、自分がこの世の内側にいるという強力至極な実感に基づくものだ。

 だが、私の場合その実感はもともと薄弱であり別の領域との接触感があったが、今回、半ば強制的に出品楽曲鑑賞を繰り返すことで、二領域の境目は一層の活性化を見ている。
 私はほかの八曲を何度も聴いた。なぜか?聴き手にとって現代音楽はとかく初め 面白くてそのうち飽きてくることの方が多い。出会いがしらの新鮮さが数秒ごとに薄れて行くのは物の道理で、ならばそれに代わる音楽生命の活性化材料(賦活剤)の投入/参加が求められるところなのに、それが続かないのだ。
 だが、それは(初演ならぬ)初鑑賞的態度に終始するからではないか?  
 曲により第一印象の良し悪しの落差は小さくなかったが、私は公平無私を決め込みどの曲も7 回ほど聴いた。すると記憶の層(カンバス)に音の有無が塗りこまれてくる。だがそれは耳からの直接音が表から塗られるばかりではない。いつしか意識の裏/脳の裏からカンバスの裏面に塗られるような実感が生じてくる。私はそれを表脳 作用に対して裏脳作用と名付けることにした。するとどうだろう。当然、カンバスの表に塗られる音の有無とうまく重なり意味の濃いものになって行くわけで、第一印象よりもずっと良くなった作品のなんと多いことか?
 その高まりが他を引き離して大きかったのは二宮毅氏の Digital Disutance。
 失礼ながら会場では隣の天文学者(89 歳)に「退屈で申し訳ない」と謝ったぐらいだった。ところが録画鑑賞を繰り返すうちに記憶層に一つ一つの音の有無が描きこまれ絵画が見えるようになって来たのである。この作品の場合、貧しい情報を必死に受信し意味を読み取ろうとする努力は私の物であり作曲者二宮氏の物であり、当初の劣悪な印象は消滅し、充実した意味を内蔵した芸術作品に変貌したのである。
「音楽は抽象だ」とはよく言われるが、この作曲、鑑賞ともども典型的な抽象化であり共同作業であったと言えよう。
 私はいつもプレイバックを繰り返しつつ作曲をする。鑑賞する時間の方がはるかに長い。それは表脳より裏脳機能を優先しているからだ。裏脳は自我や交感神経とは ある意味、無縁と言える。そしてそれの大本である有/存在の裡は生死を超越している。死とは生ける人間にとって未来の領域にある。現世の人間にとっては“むしろ”あちらの領域に思いを馳せた方が有そのもの/存在そのものを純粋に直覚出来るのではないだろうか?その未来領域は脳を対象化して観察するだけでは見つかる筈はない。なぜならそれは脳に先立つ領域、脳を未来から支え、情報が送り込まれてくる領域だからである。私はそう思う。
          -作曲家に訪れる寝起きの流入情報に深謝しつつ 2021.12.17ロクリアン正岡

補記:なお拙作「不可知なるものへの往信」演奏担当のご両人は本番 3 か月前から 練習を開始、本番に至るまでその持てる音楽性、知力、体力、集中力によりこの難曲 の求める音楽が実現した。ピッコロ/フルートの大岡三佐子氏、チューバの本橋隼人氏の健闘を称えたい。

 

チューバ演奏者の本橋隼人氏のコンサートレポート

今回で3回目の出演者になります。初めは今まで現代音楽に触れる機会がなかったのでその音楽をチューバで奏でること自体不安や本質的に考えてみたところで難しすぎると思っていました。でも、心の中にはどこかにチューバで挑戦してみたいという気持ちはありました。管楽器は歌と違い歌詞はないけれど、取り組んで行くと作曲者がもしかしたらこんな感情を伝えたかったのかなとか描いている世界観にどっぷり浸かれまして体内に何か新しいモノが宿りおどろおどろしく掻き回される感情に、そんな魔力が楽曲にはありそれが楽しくもあります。
 今回ピッコロ/フルートとテューバというかなり珍しい二重奏でしたが音合わせをしている段階から、「楽しみだ」と思えてきて、本番はホールも含めて本当に音楽が宿るというか不思議な経験でした。たった二人だけですが、全ての事が一つにまとまっていてすごく繊細で整っている、そんな曲に出会えて圧倒されました。
 最後に、会場や配信で見てくださった方に感謝とこの感動と幸せを忘れずにこれからもテューバを演奏したいと思います。

 

フォーラムコンサートを終えて  ピッコロ/フルート 大岡三佐子

 今年も再び、この舞台に立たせていただいたご縁に感謝しております。このフォーラムコンサートでロクリアン正岡先生の作品を演奏させていただくのも3度目となりました。演奏をする自分やお客様と同じ時代を生きる作家さんの作品を初演する事の緊張感や、やり甲斐は何度経験しても大変有意義なものです。回数を重ねるごとにロクリアンさんのお人柄にふれる機会も増え、音楽に対する情熱と志が、ロクリアンさんの少年のような純粋さとともに作品にそのまま注ぎ込まれていると感じるようになりました。難しいと受け取られがちな現代音楽というジャンルで(難しい事が悪いことではないと個人的には思っていますが)ルールや定石を飛び越えてお客様にはその剥き出しの音楽がきちんと伝わっているのではないでしょうか。私たち奏者も楽譜だけに向き合うのではなく、作家さんご自身の言葉に耳を傾け、さらに作家さんにもこちらの意思を伝え相互作用を起こす。そうやって作品を作ることができるのが現代音楽の素晴らしいところだとも思います。良い相互作用が起こせるよう、作家さんの想いが伝えられるよう、あわよくば作家さんの想像を越えて音楽を奏でられるよう、奏者として日々精進せねばと身の引き締まる、そんなフォーラムコンサートでした。

 

Forum Concert2021の感想                                   楠 知子

 今年はChopin competitionがあり、知人の何人かは、寝不足になりながらもネット配信によりその模様を視聴し、大いに楽しめたそうだ。私のようにChopinに精通していない者には、そこまでではないが、未来が開けたようでうれしい。  
 さて、今回は、ほぼすべてのMusic of Our Time21を、オンライン・生演奏で聴くことができ、コロナ禍ではあるが、このような機会を得、感謝し、満足している。作品は十分に練られた緻密な作品ばかりで、勉強になった。そこで私見ながら、Forum Concertの作品の傾向をまとめてみた。   
(1) オーソドックスな楽器(Piano、VLなどの弦楽器、Clなど)を使いながら、エレクトロニクスを加える、或いは、楽器の特殊奏法を駆使して異化することで、全く新しい作曲的な価値を生み出そうとするもの。 
(2) 内容に重きを置いて、音楽従来の3要素(広義の旋律、音価、和音)を保守しながら、virtuosity を追求し、聴衆に訴えるもの。  
(3) 単純な音、動作を使いながら、創作の意味を根源的に問うているもの。  
 以上の3つにわかれていたと思う。しかしながら、意図が、音楽(演奏)として成功しているかどうかが、作品としての最終的出来ばえにつながると思うので、楽譜の書き方もとても大切だということに気づかされた。 

 自作については、全体に好意的に受け止められた。コメントを以下に記す。  

(作曲サイト)S氏;現音の中では保守的である。M氏;音の上の方が輝いていた。植物的で静的だ。他;自分には弾けない手の動きだ。自作自演がユニークだ。今後の活躍を期待。 

(演奏サイト)O氏;とても良い音色感、素晴らしい作品。後半のテクニックに若干改善の余地あり。他;自然な動きで優しい感じがした。繰り返し聴くとしみじみいいなと思う。気候変動の様子が美しいpianoの音であらわされ素敵な演奏だった。終わりも決して暗いものにならず希望がある未来へと繋がっていくように感じた。Debussyに通じるものあり。  

(一般)・光と影のイメージを感じた。水の反映、せせらぎ、瀬音が想起された。中間部、動物の歩み、後半表現しにくいが面白い。
・きれいなPianoの音がよく響いた。演奏者の現在の様子がよくわかった。        
・幻想的な音色で美しかった。自分は演奏を聴く時には、心で受け留めている。
・他の方の作品を含め、全体に素晴らしい演奏だった。楠の合唱曲ー相模野を歌ったのを思い出す。         

 このように まとめてみると、次に何をなすべきかが、見えてくる。有意義なConcertだった。  

 

フォーラムコンサートレポート                                                                                                                                             大平 泰志

 Rosenkreutz は、人間の中に宿る自己超越欲求を音楽化したものであることはすでに述べた。 しかしながら、私はどのような作曲家であっても、自信の意識レヴェルに応じた作品を作るものであると考えている。

人間の快には、さまざまな種類があるが、私は、快を以下のように分類する。

快楽 生理的欲求
安心 安全欲求
幸福 所属欲求
至福 尊厳欲求
平安 自己実現欲求
法悦 自己超越欲求

さらに上の快もあるが、我々人類にはあまり関係ないので割愛する。

わたしは、音楽に限らず、人を見る時、しばしば、その人が何を目指してるか、その深層を探る
ことがある。

Rosenkreutz を、知人が、法悦感があるといってくれた。これは的確な誉め言葉だったと思う。 人間の脳内物質とある欲求や快楽は一致していると私は見ている。

私の考えによるとそれは以下のようである。

憎悪 ノルアドレナリン
情熱 ドーパミン
幸福 オキシトシン
至福 エンドルフィン
安らぎ セロトニン
法悦 アナンダミド
空 ジメチルトリプタミン

人間の愛着の正体は憎しみであり、その愛憎の情熱は昇華され幸福なる愛情へと高まる。愛情の
正体は悲しみであり、悲しみは高められ至福なる愛になる。愛は義務感や行為への執着を終わら
せ安らぎをもたらす。愛が与えるものから、存在へと変化したとき、法悦となる。

なるほど、与え続ける人は、見返りを求めない勇者ではあるが、能動性を残してるため、そこに
は暴力性があるだろう。

愛は与えるものではなく、存在なのだ。と知ったとき、真の愛を知るだろう。

Rosenkreutz は、まさに与える愛とそと存在の愛の違いを感知し始めた人の物語なのである。

人によっては、与える愛=父性=能動 存在の愛=母性=受動と分けるかもしれない。

そして、存在の愛は=法悦つまり死の悦楽なのである。

死とは、自我、内心の悪、執着、底から生じる恐怖などの死なのである。

存在の愛であり死であり法悦であり母性であるものを、少しでも感じ取ってくださる人がいたみ
たいなので、この作品は上手くいった。と思っています。

今回はありがとうございました。