日本音楽コンクール作曲部門の審査会に係る変更についての要望と質問

日本現代音楽協会は、日本音楽コンクール委員会に対し、以下の文章を送付いたしました。

 


 

2018年5月5日

日本音楽コンクール委員会 御中

日本現代音楽協会
会長  近藤 譲

日本音楽コンクール作曲部門の審査会に係る変更についての要望と質問

貴コンクール作曲部門にあっては、今年度から、審査の方法を変更し、本選会を催さずに、すべて譜面審査によるものとすること、そして、第一位の作品のみが受賞者発表演奏会で演奏されることが公表されました。それにつきまして、既に本協会の福士則夫(前会長)がその私観を3月16日付の貴委員会宛ての書簡でお伝えしたことはご承知のことと存じますが、此度改めて、当協会として公式に要望と質問を申し上げます。(尚、下記の要望と意見は、貴コンクールの主催機関の一つである毎日新聞の3月6日付東京版夕刊に掲載された梅津時比古氏による署名記事に記された情報に基づいています。)

作曲コンクールの目的の一つは、社会的に見れば、有望な新人の存在とその音楽を世に知らしめるということにあるでしょう。今日の音楽文化状況の中で、「新人の発掘」あるいは「音楽家の登竜門」といったコンクールの役割に一定の社会的意義があることは否定しません。しかし、目的が単にそれのみに止まるのであれば、コンクールに優勝して社会的な認知を得ることを目指す若い音楽家たちの競争心を過度に煽るだけの結果を招きかねません。したがって、コンクールの実施に当たっては、若い音楽家たちの健全な成長を促すという教育的な目的を忘れることはできませんし、むしろそれこそがコンクールの本来の目的であるべきでしょう。そうしたことを含めて考えると、此度の変更には、疑義を抱かざるを得ない点があります。
これまで、貴コンクール作曲部門における審査は、予選にあっては譜面による審査、そして本選にあっては、予選通過作品を演奏したうえでの審査が行われてきたわけですが、その本選審査が、今後は予選の場合と同様に、譜面のみによる審査になるとのことです。譜面のみによる審査は、実際にこれまで予選審査で用いられ、十分に機能してきた方法であると推測できますから、その意味で、その審査方法は(最良の審査方法といえるかどうかは別にしても)本選においても有効に働き得るでしょう。すなわち、此度の審査方法の変更に於いて危惧される点は、審査方法自体の良し悪しといった問題にあるのではなく、予選通過作品であっても演奏されない作品が出てくるということにあります。
経験の浅い若い作曲家にとって、自分の作品が演奏されること―演奏リハーサルに立ち会い、そして、実際に音響として実現された自らの作品を聴くという経験―から学び得ることは量り知れないほど多く、また大切です。そのことを否定する作曲家は一人もいないでしょう。つまり、これまでの本選会に於ける演奏は、審査員の判断を援けるものであると同時に、予選通過者に対する貴重な学習機会の提供という非常に重要な教育的役割を担っていました。それが、此度の変更によって、受賞者発表演奏会で第1位の作品のみが演奏されるということになれば、コンクールが担ってきた掛替えのない教育的役割が大幅に縮小されてしまいます。これはコンクールそのものの意義を大きく損なうものです。
実のところ、演奏される作品が第1位のみに限定されてしまうことから生じる問題は、上記のような教育的役割の大幅な縮小という点だけに留まりません。
これまで貴コンクール作曲部門では、全予選通過作品が、本選における演奏によって公表されてきました。しかし、此度の変更によって、第2位以下の入賞者については作曲者名と作品名が公表されるのみで、その作品自体は実質的に公表されないことになります。ここから次のような問題も生じます。
これまでのコンクールの聴衆(当コンクールへの応募者自身も含めて)は、全予選通過作品の公表演奏を通じて、入選という評価を得た作品の範囲の全体を知ることができました。そもそも芸術作品の評価には客観的な基準があるわけではなく、そこには多分に主観的な要素が介入せざるを得ませんから、審査結果の順位は、決して絶対的なものではありません。つまり、単に第1位の作品だけを聴いても、入選作の全体を聴かなければ、高い評価を得た音楽がどのようなものであるのかは十分には摑めません。作曲を志す若い人たちにとってだけでなく、音楽に関心を寄せるすべての人々とって、長い歴史を誇る権威ある貴コンクールにおける入選作の全体像を聴いて、どのような音楽が高く評価されているのかを知ることは、今日の音楽創作状況の見取り図を描くうえで貴重な情報源の一つとなってきました。それが失われることは、貴コンクールが果たしてきたそうした音楽文化的・社会的な役割を損ない、延いては、現代の芸術音楽創作への一般の関心が希薄化することにも繋がりかねないと、危惧するところです。
しかし改めて指摘するまでもなく、こうした問題については、既に貴委員会も気付いておいでであるに違いありません。毎日新聞の記事には、「1~3位の入賞作品はNHKの番組内で放送される予定である」とあり、これは、演奏を第1位作品に限定せずに実質的にその範囲を広げるための改善措置であると推測します。本年度の貴コンクール作曲部門はオーケストラ作品を対象としており、例年オーケストラ作品のコンクールの本選会で演奏されてきた作品が4曲程度であることを考えれば、放送のみとはいえ、実質的に3曲が演奏されるのであれば、演奏曲数の縮小は最小限に止められているといえるでしょう。
来年度の貴コンクールは、例年の通りならば、室内楽作品を対象とする回となります。室内楽の本選会では、これまで、6~7作品が演奏されてきました。この場合には、もし本年度のように演奏が3曲のみ止まるのならば、演奏曲数の大幅な削減になります。上に述べてきたような貴コンクールの重要な役割と意義を保つためにも、何らかの形で予選通過作品の全てを演奏公開することを切に要望する次第です。

さて次に、此度の審査方法変更の理由についてお尋ねいたします。
毎日新聞の記事には、旧審査方法の不具合を示す事例が二つ挙げられており、それが此度の審査方法変更の主理由であるように書かれています。それらの事例とは、以下の通りです。

(1)「本選の演奏において、譜面通りに演奏されないことが起こり得る。」
(2)「譜面審査の点数と、演奏を聴いての点数に開きが出る場合がある。」

(1)について、記事には、「審査員は本選の審査でも譜面を見ており、たとえ間違って演奏されても、基本的にそれが評価に影響することはない。しかし会場の聴衆には間違った音が伝わることになるし、作曲者としては、不完全な演奏で審査されることに不満が生じる。」とも記されています。まず、演奏に間違いがあったとしても審査には影響がないとはっきり述べられていますから、それが審査方法の変更の理由でないことは明らかです。
もしこの事例が審査方法変更の理由の一つであるのだとすれば、それは、後段に述べられている聴衆に誤解される虞と、作曲者の不満を払拭するためということだろうと推測できます。
しかし、作曲者の不満についていえば、そもそも「演奏が基本的に審査に影響することはない」のですから、そのことを作曲者に説明すればよいだけのことです。また、作曲者自身にとっても、演奏されることから学べることの大きさを考えれば、演奏上のいくらかの間違いは大きな問題ではないはずです。
また、「聴衆に間違った音が伝わる」ということですが、音楽の生演奏には、どのような音楽に於いてもいくらかの間違いはしばしばあるものであって、その音楽全体の理解を妨げてしまうような大量の大きな間違いは、極めて例外的なことでしかありません。聴衆にとって、音楽の演奏を聴かずにその音楽を理解することなどできないのですから、そのような非常に例外的な場合から聴衆を護るために、演奏自体を止めてしまうのだとすれば、それはまったくの本末転倒でしかありません。

(2)について、記事は、予選での譜面審査の評価点数と本選での演奏を聴いてからの評価点数が著しく異なる場合があったことを挙げ、それは演奏の良し悪しが審査員の作品評価に影響したからであると説明しています。
予選での譜面審査の評価点数と本選での演奏を聴いてからの評価点数が異なることは、稀なことではありません。優れた音楽的能力と経験をもった審査員が、譜面審査に於いて、細心の注意を払って楽譜から音楽を読み取ったとしても、曲のすべての細部まで読み切れないこともありますし、また、人間である以上、読み間違いをすることもあります。演奏を聴いてそれに気付き、譜面審査の評価点数を修正して異なった点数を出すことがあるのは当然のことです。とはいえ、そうして生じる点数の差異は、ほとんどの場合、大きくはありません。審査員として選ばれた作曲家たちは、言うまでもなく、演奏の良し悪しを区別し、そのことを勘案したうえで評点を付ける能力を十分に備えた人たちであるはずです。したがって、譜面審査と演奏を聴いての審査の評価点数が非常に掛け離れるのは、ごく例外的な場合です。仮に、頻繁にそのような点数差を示す審査員がいるとしたら、それはその人の審査員としての資質を疑うべきであり、そのような人に審査を依頼したコンクール委員会の責任が問われることにもなるでしょう。
いずれにせよ、予選と本選における評価点数の差異が極めて大いのは頻繁に生じていたことではなく、例外的な事例でしょう。どのような審査方法を採ったとしても、例外的な事例が生じることは避けられませんから、それをもって審査方法変更の主理由の一つとするのは非論理的で、無理があります。

以上のように、これらの2事例は、審査方法の変更の主理由としては不可解で、非論理的であり、到底納得できるものではありません。

さて、毎日新聞の記事には、審査方法変更の第三の理由として、「この改革に至った経緯には、経費的な要因もある。」そして「本選に残った作品を全曲演奏すると、(中略)膨大な費用がかかる。」と述べられています。これは、副次的な理由であるかのように書かれていますが、上記の2事例の不可解な理由とは異なって、極めて明確です。おそらく審査方法変更の真の理由はこの経費削減にあり、2事例を根拠とする不可解な「審査方法の不具合の改善」は、この真の理由を目立たなくするために付け加えられたものでしかないだろうと感じてしまうのは、邪推でしょうか。
経費削減が審査方法変更の主理由であるにせよ副次的な理由であるにせよ、それが大きな理由の一つであることは明らかです。そこで、これについて2つの質問を呈します。

(1) 経費削減が不可欠である理由を、主催機関担当部署からの貴委員会への経費削減要請理由説明と、それに対する貴委員会のお考えを含めて、お示しください。
(2) 経費削減が不可欠であるとして、その場合、特に作曲部門に対して他の部門に比して大幅な経費削減が実施されるのはどうしてでしょうか。経費削減が急務であるのなら、他部門もその負担を分かち合うべきでしょうが、作曲部門のみに突出した経費削減施策がとられているようです。もし、これまで、他の部門よりも作曲部門に大きな経費がかかっていたのだとすれば、それは、作曲コンクールの意義と使命を適切に遂行するためにはそうした費用が必要であるということであって、それを削減してしまえば、コンクール作曲部門の基本的な教育的意義が脅かされる結果になります。コンクール作曲部門の意義を犠牲にしてまで、そこに突出した経費削減が課せられるとすれば、それは作曲というものへの軽視であり、差別に外なりません。

音楽に於ける作曲という行為の重要性を疑う人はいないでしょう。日本に於いて最も大きな影響力をもつ貴コンクールが、作曲を軽視していると感じられるような方向をおとりになることは、日本の音楽文化全体の将来にとって決して良いことでないと感じておりますし、作曲家の組織である当協会としては、黙してそれを看過することなどできません。
貴コンクール作曲部門の審査方法変更に関わるこれらの疑問にお答えいただくとともに、今後とも予選通過作品の全てを何らかの形で演奏公開していくことをご検討いただくようお願い申し上げて、貴委員会の誠意あるご回答をお待ちいたします。

(尚、本書簡は、当協会の公式の声明文として、当協会のホームページで公表するとともに、主要音楽雑誌、主要新聞の音楽担当部署等にも送付いたしますので、その旨お知りおきください。)