現音 Music of Our Time2025のフォーラム・コンサートは、
11月27日と11月28日の2夜にわたり開催されました。
今回は出品者のレポートをお送りいたします。
生けるすべてのものを根底的に呪縛するエゴイズムに抗する音楽こそ!
-当協会主催の直近のコンサートに参加して
第1夜出品者 ロクリアン正岡
現代音楽といえば、人気曲は別として、作曲者の特徴ある限定的なコンセプトがまずあって、それが受容者に特定認知されるかどうかで、その価値が計られるもののようだ。12月3日の42回現音作曲新人賞本選会ではそのことが鮮明に示されていた。
一方、F・C第一夜はこの分野にして珍しいほどに人間として普段からの言いたいことを自身の“音楽的嗜好”によって具現されているものが多かった。
楽譜は専門家同士の作曲意図の伝達には音楽以上に便利なツールだろう。しかし楽譜は設計図やレシピのようなものであって建築物と食事がそれらと全然違うように音楽とは全然違う。
建築物は様々であるが、基本、中に身を置いても対象視しても心地よいものでありたい。食べ物 もまずは美味しく消化しやすく栄養になるものでありたい。
芸術体験は、ここでは音楽に絞るが、耳にも心にも気持ちよく良い時間を過ごした、と思えることが基本だろう。
そのうえで、得難い何か、不可知な何か、があるようで、自ずからそれを確かめたく繰り返し聴くことで、何か価値ある領域が開けてくると同時にその先へと問いが伸びてゆくという循環発展運動が生じるものでありたい。
だから拙作「南無阿弥陀仏No.2“ああ、極楽浄土”」はユーチューブに投稿し公開させていただく。
動物と違って人間は己が死ぬことを知っている。その上で「死んだらそれっきりだ」とか「死後なんて考えても成るようにしかならない」という方々も少なくないだろう。ともかく人生をおしまいにしたくないから死を避ける行動をとり続けるのが普通の態度/姿勢だ。
だが、「死後は無だ」というのは誤謬!だろう。それは死んでも時間は与えられていて無を体験できる、としているからだ。体験があるなら自分があってのこと。
要するに、「死後も自分のこと」という限定で考えているとは、これ究極のエゴイズムだと私は思う。
音楽の本務は、そんなエゴイズムからの解放だ、というのがこの年80歳になって到達した私の作曲理念だ。
日本は仏教の影響が濃いから「死ねば輪廻転生のサイクルに乗せられ次の生を受ける」と思う方々も多いだろう。だからこそ、そこから脱却して仏の国/浄土で落ち着きたい、という方々もおられ、またそういう宗教宗派が古くから実在しようというものだ。
いずれにしても、この宇宙に限らず、存在するすべての事象を取り仕切る「存在そのもの」ということが考えられるが、その極点、いわば台風の目のようなものが浄土の領域なのではないか?
クラシック音楽の御三家の楽曲にはそのような雰囲気があるし、サンサーンスの「白鳥」など実に分かりやすい例だと思う。
私はかねてより音楽の真の現場は鑑賞にあると思っている。その為には音の有無による現象が与えられねばならないし、そのためのシステムがなければならない。人の心身を幸福にするために用意される薬が作曲と演奏の協働で作られるのだ。その本質はすでに「他力」活動であり、そこにおける「自力」はその助役のようなものだ。
いずれにしても音楽は鑑賞者に浄土の雰囲気を齎せる可能性があり「もしかしたら浄土って本当にあるのかもしれないし、そこに行きたいものだ」と思わせる能力も本来持っていると思う。ただしそういう音楽を何度も信受したからと言って死後実際に極楽浄土へ行けるとまでは思わない。
ところがある宗教は「日々、本当に心から信じて『南無阿弥陀仏』と念じたり唱えたりすれば極楽浄土へ行ける」と主張する。だが、死後の実際はどうなのだろうか。
これは最も奥の深い問題の一つであろう。そして、死んだら必ずわかるというような簡単なことですらないように思えるのだが、読者のお考えは?
とにかく、耳も喉も手も頭もある事物があってそれがなんと自分であり人間みんなである。だから音楽も与えられ当然ながら世界に包まれている。それだけで出来すぎた事実/現実である。しかし、それらは別に浄土や仏ほどのものと比べなくても中途半端な生き物でありはたまた世界でもある。音楽にはそれを超える潜在能力があるのかもしれない。そこのところをもっともっと知りたい。ああ!
フォーラム・コンサート第2夜を終えて 第2夜出品者 松波匠太郞
フォーラム・コンサー 第2夜に出品させていただきました。入会させていただいた2021年以来の参加で、久々のフォーラム初演や共演をひたすら楽しみに、常に前向 きな気持ちと勢いで作曲することができました。編成はフルートと三味線のデュオで、先の勢いそのまま、元気な作品が出来上がったように思います。プログラムノートにも記した雅楽の「乱声」から、そのポリフォニーを自作に持ち込んでみたいという発想と、自身が学ぶ三味線で、表現の限りを尽くした熱い作品を書いてみたいという思いが一つとなり結実、誕生した本作です。
フルートの尾藤あづみ氏は桐朋学園の学生で、和声や作品分析、室内楽実技など、自身から様々を吸収してくれた若手奏者です。2021 年の初演も桐朋の学生たちによるものであったことも思い出され、今回演奏を託しました。こちらのあらゆる要望に真摯に向き合い試行錯誤し、本番では素晴らしい演奏を披露してくれました。若さ溢れるパフ ォーマンスは可能性に満ち、これからが楽しみなアーティストです。
三味線の本條秀慈郎氏は言わずと知れた、現代音楽の世界的プロパーであり、今回も作品を実際のそれ以上のものにして下さいました。氏がメンバーとして在籍する邦楽器による演奏団体 J-TRAD Ensemble MAHOROBA の皆さんに、昨年度末新作を初演していただきました。大編成ならではの発想で書かれた前作では達成できなかった、三味線の 緻密な表現や技法を、今回はなんとか盛り込めたように思います。合わせの中でも勉強させていただくことが多く、頂戴したアイデアは自身を前進させ、また演奏ではフルー トを常に引っ張り、そして本番を成功に導いて下さいました。
共演させていただいた出品者の皆さんの作品はどれも個性的なものばかりで、たくさんのアイデアを得ることができた充実の第2夜本番でした。これらの個性を絶妙にプログラムして下さった現音役員の皆さまにも、改めて感謝いたします。どの作品も鮮明に記憶され、個々の感想を述べたいところですが、それは作家同士個別での対面が叶った際にとっておくこととします。その対面と次回の出品を楽しみにまた、精進して参ります。

