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11月 16

アンデパンダン出品者からのメッセージ 第1夜


アンデパンダン出品者からのメッセージ 第1夜

 

◎ まずは梶俊男さんからのメッセージです。

遠藤ミチロウの詩による歌曲   梶 俊男

「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」~について

この詩は遠藤ミチロウさん自身がギターの弾き語りで歌っている曲です。ご本人の考えとは違うかもしれませんが、この詩に自己・他者・社会等に対する反発・ジレンマ・怒り等々が感じられ、だいぶキナ臭くなっている今の日本の状況・気分にはピッタリです。題名通りマザコン的気配も濃厚ですが。

歌詞にならないかと現代詩手帖とか本屋の詩の本のコーナーに行ってみはするのですが、なかなか食指が動くものがありません。著名な方、作品は避けて自分の年齢に対して10歳前後というのが探すポイントです。

遠藤さんはその昔スターリンというパンクバンドをやっていました。私は名前は知っているという程度の認識でした。ある時テレビで遠藤ミチロウさんがお話しされているところを観て興味を持ち、調べたところこの曲・詩を知りました。

本人の弾き語りはEマイナーの下降クリシェが中心の伴奏にラップとは少し違いますが、要は早口のシャウトで歌っています。これをゆっくりとした歌曲にしてはどうかなと思ったわけです。最初は「遠藤ミチロウの詩による抒情歌曲~」にしようかと考えました。しかしアンデパンダン展は1作品の持ち時間が12分までということですので、だらだらやっていたら時間が足りないなぁと若干方針を変更しました。

歌詞は普通の歌の曲でいう4番まであります。1番と4番は最初の発想の抒情的という方針で作曲しました。1番は少しパルランド的なところが多くなりました。曲を短くしなければという強迫観念のなせる業でしょうか。2番はアメリカ、ベトナムなどが歌詞に出てきますので世界警察アメリカは軽薄ミニマルミュージックで表現しましょう、ということに。3番は詩の感情とか場面に即して少し展開してみました。少しだけオペラ的?

ご本人に直接使用許可をいただきにライブハウスに伺ったところ「バンバン使って下さい」と言われました。許可していただき感謝しております。

以上。

次は露木正登さんからのメッセージです。

無名作曲家の独り言~なぜ、バロックなのか?   露木正登

「現音・秋の音楽展2015 アンデパンダン展」の集客のための宣伝、および作曲者自身のPRのため、という目的で、NEW COMPOSER編集室より原稿の依頼があった。正直、何を書いてよいのか? 実は、私には文章で書きたいことなど何もない。しかし今回、私は柄にもなくアンデパンダン展の制作担当者の端くれでもあるから、宣伝やPRのために非協力的なこともできない。昨年のように手っ取り早く「架空インタビュー」でもでっちあげるか? しかし、昨年と同じではあまりにも芸がなさすぎる……などとここ数日間、頭を悩ませているうちに原稿締切り日となってしまった。原稿を書く気乗りがしないのは、例によって肝心の作曲の方が、先行きの見通しがまったく立たずに滞っている状態だというのもある。

ところで、アンデパンダン展の集客につながる宣伝が目的ならば、社会的に知名度のある人や、現代音楽界で注目されている作曲家が書いたほうがいいのではないか、と思ったりもする。私のように、社会的に知名度があるわけではなく、ましてや現代音楽界からも注目されていない無名作曲家が声をあげたところで、誰の関心も惹くことはできない。おまけに文章を書く才能はゼロだから、読んで面白い文章が書けるわけでもなく、私によほど関心がある人でなければ、まずは読まないだろう。読まれない文章のためにここ数日間、多くの時間を費やしていることがだんだんと馬鹿らしく思えてくるのだが、それは文章に限ったことではなく曲の方だって同じことだろうと、ふと考えたりする。拙作はまず注目されることはないし、あまり話題にもならない。私によほど関心のある人しか、その曲に耳を傾けてはくれないだろう。「初演」は「終演」を意味し、二度と作品は演奏されることがない。その意味では、拙作の「初演」の機会は本当に貴重である、とも言える。なぜなら、アンデパンダン展を聴きにご来場いただいたお客様は、拙作の最後を見届けることになるからである。拙作の場合、アンデパンダン展での初演を聴き逃すと、未来永劫その曲を聴くことはできない、ということが最大のアピールになりそうだ。

さて、私がどういう作曲家であるか、知らない人がほとんどだと思う。「毒にも薬にも」ならない平凡な曲を書いている作曲家である、とでも言っておこうか……これでは芸術家としては失格だ。しかし、私には「自分は芸術家である」という自覚がゼロだから、この批判はまったく気にならない。そもそも、自分が書いている音楽が「芸術である」などとは考えたこともないし、そのようなことにはまったくの無関心である。ただ、私が自意識過剰なほどに拘っているものがあるとすれば、自分が書いているものは「音楽である」ということ、そして自分の行為は「作曲に値する」ものである、ということだけである。

私という作曲家を、日本人が好きなカテゴリーへの分類、レッテル貼りをすればどのようになるか? 私の曲には「旋律」と「リズム」がかならず存在しており、楽器の奏法も伝統的で特殊奏法には関心がないので、「前衛派ではない」ことは間違いない。これは衆目の認めるところであろう。しかし、私の曲は調性では書かれておらず、音楽形式も伝統的なスタイルには関心がなく、和声法も「フランスのコンセルヴァトワール様式」を身に付けているわけではないから、「保守派」いわゆるアカデミックな立場とは相容れないものである。早い話が「どっちつかず」で、こういう中途半端な立ち位置の存在は何やら怪しげに見られがちである。日本人が大好きな学閥や権威、麗々しい肩書といったものにも私はいっさい無縁だから(ついでにイケメンでもないから)、日本で作曲家として生きていくための諸条件は満たしていない、と言える。これでは、世間が私のことを作曲家として認めないのは無理もないのかもしれない。立ち位置を失った作曲家、というのが私の自己評価である。

さて、現代音楽界における立ち位置を失っている私が、今回、性懲りもなくアンデパンダン展に出品するのは、バロック・ヴァイオリンの独奏曲である。これまた、現代音楽界においては注目度ゼロの、最初から黙殺されるのが必至な作品であると断言する。現代音楽的な特殊奏法などは一切使わず、バロック音楽の演奏スタイルで演奏されることを前提にしている今回の拙作、そもそも、現代という時代に生きている私が、なぜバロック・ヴァイオリンのための曲を書くのか? その曲はモダン・ヴァイオリンではダメなのか?……そんな疑問が頭を過ぎって、作曲はなかなか思うように進まないのが実情だ。

なぜバロック・ヴァイオリンなのか? それは「音色の魅力」ということに尽きると思う。その「音色」は、モダン・ヴァイオリンでは絶対に望めないものである。また、モダン・ヴァイオリンで独奏曲を書く場合、現代音楽的な特殊奏法を駆使した曲になるか、あるいは伝統的なヴィルトゥオーゾ・スタイルの曲になるかのどちらかであるが、伝統的なヴィルトゥオーゾ・スタイルということでは、私は2008年に「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を書いているので、いま同じようなものをもう一曲書くつもりはまったくない。特殊奏法による曲を書くことにはもともと関心がなく、私はバロック音楽が好きで、音楽鑑賞生活の中ではバロック音楽の占める割合は大きいから、バロック・ヴァイオリンに関心が向くのは私にとっては自然の成り行きだった。

バロックとモダンの楽器構造上の違いについては、ここでは書かないこととする。しかし、その楽器構造上の違いが、演奏様式に大きく影響しているということには注目したい。音楽を演奏する際、一般的には旋律を息長く「歌うこと」が重要視されるが、バロック音楽においては、旋律は息長く「歌われる」ものではないようだ。バロック音楽では、旋律は短いフレーズで捉え、「歌う」というよりも「語るように」「言葉を話すように」演奏されるべきである、という考え方である。モダン楽器では、フレーズをできるだけ長く「ひと弓」で弾くこと、また、すべての音が均質になるように演奏することが重要とされるが、バロック音楽の演奏では、すべての音を均質には扱わず「不均等奏法」で演奏するため、弓の返しは頻繁に行われる。今回の出品曲を作曲するにあたり、「旋律があり」「リズムがある」曲を書くということでは、従来と何ら変わりはないが、「旋律」を「歌う」ということを避けること……今回の出品曲における「旋律」は、「歌うように」演奏するのではなく、「語るように」「言葉を話すように」演奏する、ということが作曲上のコンセプトである。それを実現するためには、モダン楽器よりもバロック楽器の方がよりふさわしい。今回の拙作は、ピッチもバロックのピッチで、弓もバロック弓を用いて「バロックの演奏様式」で演奏される「現代音楽」であると言える。昨年までの拙作の特徴であった「息の長い旋律(フレーズ)」やひとつの長い音楽的持続ではなく、短いフレーズ、異なるテンポのさまざまな旋律的断片が同時進行しているような音楽的持続を考えた。昨年までの拙作の特徴であった「ロマン派風」スタイルの曲とはだいぶ趣を異にする曲となりそうである。そして、音楽で「何か(感情的なこと)」を表現しようとしないこと、音楽に思想的(哲学的?)な意味内容を纏わせないこと、音楽は「音の愉しみ」でありリラックスした感じの曲調にすること、というのが今回の拙作における作曲の基本姿勢である。バロック音楽へのオマージュの意味を込めて、J.S.バッハやパーセルなどのいくつかの作品からの引用がある。

バロック・ヴァイオリンというと「スコルダトゥーラ」の誘惑に駆られるが、今回の拙作は通常の調弦で演奏される。ビーバーの「ロザリオのソナタ」の驚くべき(そして現代音楽作曲家も真っ青な)スコルダトゥーラはとても魅力的だが、ビーバーはヴァイオリンの名手だからこれが可能なのであり、私のようにヴァイオリンという楽器に指一本も触れたことのない人間には無理な話というものだ。机上でいくら新しい調弦を考えたとしても、実際に演奏効果が上がらなければその調弦はまったく無意味である。

作曲における私の究極の目標は、J.S.バッハのパルティータ第2番の「シャコンヌ」であるが、この曲を目標に掲げてしまうと、どうしても超絶技巧的で力の入った曲になることは避けられない。今回の出品曲が「音の愉しみ」として書かれるという基本姿勢、リラックスした曲調とはほど遠いものとなってしまうので、「シャコンヌ」を目標にするという誘惑に何度か負けそうになりながらも、今回は「語るような」「言葉を話すような」音楽というコンセプトに徹しようと思った。もうひとつの私の理想としては、ビーバーの「ロザリオのソナタ」の最終曲、「パッサカリア」を挙げておく。これも、J.S.バッハの「シャコンヌ」に並ぶバロック・ヴァイオリンのための傑作である。

さて今回、拙作を演奏していただく須賀麻里江さんの演奏を初めて聴いたのも、バロック音楽のコンサートであった。2012年11月、クープランやジャケドラゲールといったバロック音楽を、須賀さんの素晴らしい演奏で聴いたのが最初の出会いであった。実は、須賀さんには2013年と2014年の2回にわたって、アンデパンダン展での拙作の演奏をお願いしているが、そのときはピアノやホルンを含んだ楽器編成であったことからモダン楽器を演奏していただいた。しかし昨年(2014年)、須賀さんのバロック音楽の演奏会を何度か聴く機会があったが、中でも12月のコンサートでコレルリの「ラ・フォリア」の演奏を聴いたとき、須賀さんのためにバロック・ヴァイオリンの曲を書きたい、という想いがより一層強いものとなった。それを今回、ようやく実現することになったわけである。

 

次は平野義久さんからのメッセージです。

平野義久   San Narciso Capriccio

カルフォルニア州にサン・ナルシソという街がある。地図には載っていない。地図には載っていないが、トマス・ピンチョンによるとロスの南側にあるという。のっぴきならない事情でその街にやってきたエディパという女性の話を聞いた。彼女はチェックインしたモーテルで、そこの従業員がリーダーを務めるバンド ”The Paranoid” と出会った。彼らはオツムの弱いティーンエイジャーだが、彼らなりの流儀でエディパの”仕事”を”手助け”した。相棒として現れた色男の弁護士と one night stand に及んだ際も、その安っぽいムードを盛り上げるに相応しいロクでもないバラードをプールサイドで奏でる任を忘れなかった。

“San Narciso Capriccio” は、そんなクソガキバンド ”The Paranoid” の1ファンが彼らに贈ったファンレターだ。詩の形態をとっているが、言葉ではなく音符で書かれている。とは言っても例えばラーガなんぞで以て ”I love you.” だの “Bonehead!” だのをチャクラに訴えようってんじゃない。大体気持ちを伝えようとして音符を書くなんておめでたい人はヒンデミットはおろかチャイコフスキーにさえ笑われると聞いた。ただ、かつて彼らがエディパの濡れ場をお膳立てしたように、このファンレターが彼らのハッピーなご活躍の一端を彩るロクでもないバラードたればいいと思う。むろん、そのうたうところが ”I love you.” だろうと“Bonehead!” だろうとさしたる違いはない。

 

次はロクリアン正岡さんからのメッセージです。

現代音楽奇人列伝と作曲家用時間論と

 ―アンデパンダン展出品作と虚子の名句との関係の徹底研究を中心とする

                                    正会員、ロクリアン正岡

 

この文章は、まぎれもなく私LMの文章であるが、今までどこにもなかったような風合いのものになりそうだ。とりあえず、重要な登場人物の名前を書きだしておくことにしよう。

小保方晴子(音楽の化身として)
愚過多腫汚(モデルはある現代音楽評論家)*奇人ではない
中川俊郎(小保方晴子のイトコ役として)
高浜虚子(彼岸と此岸の両方に跨る俳人として)
松村禎三(愛されるべき才能を有する師として)

 

さて、現代音楽は、本来「新しさ」を最高価値とする領域である。
それは、今まで誰もやっていなかったことをやること、どこにもなかった楽曲を存在させることがこのジャンルでは奨励されている、と受け止めることが出来る。
ところでそうなると、多くの作曲家が“あの行為”に走ることに成っても無理がない。
あの行為?―

 

でっち上げ、パクリ、現代音楽         

でっち上げ(捏造:ねつぞう)とは、有りもしないものを有るかのように設えること。

いくら現代音楽分野にあっても、こんなことを言われれば、「やはりよくない意味なんだな。」と思う人が多いだろう。

「ちょうど、心にもないことをしゃべることが良くないように、頭に浮かびもしていないのに音符を書きつけるということは良くない」と言われれば、「それはそうだ」と誰でもいったんは頷きそうなものだ(「じゃあ、絶対音感のない作曲家はどうする?」と来るなら、「そういう問題ではない」としておこう。また、日常的な「方便のための嘘」「潤滑油としての嘘」は当然、認められてよい)。

しかし、「作品とは個物であり、それを、以前にはどこにもなかったものとして(知りながら)しっかり拵(こさ)え、人々の前に差し出したい。それは何かメリットがあるに違いない」という感覚は厳然と存在する。でなければ、子供など産めないあろう。そして、作曲という仕事は、男性の場合も含め、そういう感覚には「弱い」と思う。触発されやすいと思う。

いずれにせよ、この“音楽の持つ根源的な危うさ”は、深い意味で女性的なものであり、女性作曲家が、長期にわたる作曲家の歴史から見れば、急速に増えてきている所以ではなかろうか。以前にはあったタガが外れたのである。

音楽は何物も表現しない。なおかつ新しくなければならない」とくれば、まさに「作曲ってデッチアゲでよかったんだ。むしろ望まれているんだ」と解放感を経由した開き直りで作曲するようになる、ということ。これは、もともと精神の軽やかさを持つ方の人種にはたまらない誘惑ではないかと思う。

さらに恐ろしいものに、「自分自身が自然のデッチアゲ」「他の人も自然のデッチアゲ」「自然そのもの、宇宙そのものがデッチアゲ」「だから、万事万象がデッチアゲ」という根源的な空虚感覚、気持ち、感情がある。

それは、「個物が有ることは確かだ。自分の体、手で握れる石ころ、目の前の音符、耳に聞こえる音等々。意味よりも先に、これらの存在こそはとにかく確かだ」というあまりにも一般的な常識感覚と容易に結びつく。だから「デッチアゲであろうがなかろうが個物こそ」となる。単なる綿の塊に過ぎない縫ぐるみも、「私に抱かれた熊ちゃん」という掛け替えのないものに昇格する次第である。

 

小保方晴子の音楽的凄さ

私はかの小保方晴子のことを“音楽の化身”(美しき包装紙)だとHPに書き出したこともあった。あれほど、中身のない空虚な言葉をしゃべる姿の似合う人間はいない。2014年4月記者会見においてである。一つには中身が無いということがあった。もう一つは自分自身の本質と外形、あるいは実質とふるまい、あるいは心と体が一致している、ということがあった。以上の二つの事が相乗作用を起こし、そんな彼女の姿を見てあらぬ快感に浸った男性も多かったようだ。

それに、「私は女ですから種(たね)が無ければ子供産めまぁせん」という、彼女の内部での自己容認があったように見受けられる。これは、いわゆる「女子力」とは区別するのが良かろう。それを私は「母性性」と言わず、あえて「母胎性」と名付けて置く?いや、それは甘い。「男種摂取欲」というほかない。露骨極まる言葉であり概念であるが、ここは肝心なところなのでお許し願いたい。

で、実にそのような欲を事もあろうに科学の舞台で発揮してしまったのがこの女性のとんでもないところである。しかし、「これが我慢できるものですか?」という彼女の声が私の耳にうるさい。なぜなら、その科学とは「再生医療」だ。「生命の種」を求めまくり、作りまくろうとする仕事である。その欲がそのまま論文作成の舞台に移れば「良いタネ見つけてコピペしちゃえ!」となるのである。短絡というも愚かしい(逆に、そのような危うい状況に負けずに正しく仕事を遂行した山中伸弥教授の凄さは余計光る!)。

そもそも、場面はどうであれ「種」なるものへの執念がこの分野へと若き彼女を向かわせたのであり、始めから終わりまで自身の内発動因によるものだとすれば、とにかく筋が通っているのである。

ここら辺のところが小保方晴子という女性のすごいところで、歴代の魔女に優るとも劣らない根源力の持ち主である、と思う。

このようなわけで、パクリやでっち上げは彼女にとって当然の行為だったのである。

 

彼女と中川俊郎との類縁性

ここで私はかの中川俊郎の音楽も連想してしまう。あのCD「天才の感触3」という魅惑的な代物はいかがなものか。世に天才と呼ばれる人は今どき少なくないが、あれほど「天才の快感」、「天才の喜び」そのものを赤々と晒した例を私は知らない。男女の違いは明らかであるが、小保方晴子との類縁関係は否定しがたいものがある。なぜなら、彼女を知って以来、中川のあのCDの数曲―そのとろけるチョコレート菓子のような感触、罪深い第一級の加工嗜好品―を聴くと、音楽の化身としての小保方晴子が頭に浮かんで仕方ないのである。

だいたい、作曲の才能ってなんだろう、やはり楽曲が音楽的生命に満ちているものだとすれば、それは次の能力が中心の座を占めるものと私は思う。

当たり前のことだが、生きた音楽そのまんまが脳裏に浮かぶこと。ただし、音楽も質料を必要とするから、記憶された音楽が種とされる場合が非常に多いだろう。「海から山から生き物をパクラずして料理ができるか?」という理屈である。

ただし、料理や視覚芸術の場合と違い、作曲の場合にはパクリの対象が外ではなく既に身の内に入り込んでいるのだ。本人それと気づこうと気づくまいとである。

だから、全くパクリと縁のない楽曲など探す方が困難だし、そんな楽曲の方が却って非音楽的で、でっち上げ(後に「捏造」と言い替える)的印象の強いものになりがちだ。現代音楽にとって、これはやはり耳の痛い話ではなかろうか?なにしろ、神はなかなかの皮肉屋なのである。そのように人間たちに仕掛けてきているのである。「そんな悪い神なら悪魔と呼ぶべきだ!」というのも正しいかもしれない。

で、何を言いたいかと言うと、中川は音楽記憶再生能力が人並み外れている。

「天才の感触」のなかのほとんどどれも、適宜なパクリ感とわずかなデッチアゲ感を伴いながらも新鮮で美しいものに仕上がっている。とくに、中川作品の場合、音楽のメディア(媒体)としての性格が優っている。「何物も意味しない上質な器としての性格」である。

小保方晴子における空洞感、空虚感が彼女の「音楽の化身」性に大きく寄与していることで、中川との類縁性は筋が通るわけである。

だが、音楽が本格的な意味で芸術であるためには、そのメディア性だけではどうにもならない。それについては本稿に於いても、後述するところとなる*(なお、コマーシャル音楽についての私の論考が、公明新聞文化欄の記事「オウム(真理教)の持つ反芸術的傾向」にある。ご興味のある方はLMのHPにある、「八木哲学の生体解剖からロクリアン哲学へ」の本文の下を参照されたい)。

ここまで、音楽はパクリの過程を踏んだものでも十分に音楽的開花をみることを知った。

音楽の場合、個物としての作品が出来上がっていれば、いったい誰が、「ありもしない」などと言えようか。音響質料としての個物のほかに、いったい何が無くてはいけないと言うのか?

 

現代音楽の、それどころかそもそも音楽の開き直り

「音楽は“実体のない環境”の如きものであって、別に何物も表現しない」という美学は存在しうるであろう。音楽のメディア面を重視すれば、音楽によって運ばれる内容などなくてもよい。空っぽでよい。要するに、事は聴き手の耳との出会いから始まる。音楽と出会って受容者という楽器がどう鳴るかである。音楽が聞こえるとき、音楽は周囲のものを「我が物顔に」自分の内容として取り込むようなことをする(聴き手が音楽の方のせいにするからこのような結果になるのだが)。

コンクールなどいい例だ。音楽自体が良いか悪いかなんて誰にもわかりはしない、という考え方がある。「音楽自体」という輪郭線をどう引くのか?「楽曲自体」というのならもう少しはっきりしていそうなものだが、「音楽的面」を退けるわけにゆかないから、いやらしくも「音楽自体」が「楽曲自体」にまとわりつく。だから、「音楽自体」は、ただただ審査員、あるいは聴衆賞の場合は集まった聴衆の心を「我が物顔に」取り込むことが出来るかどうかが肝心ということになりがちだ。そんな狡いこと、どんな種族の作曲家が得意か分りやすすぎる話ではないか*。

*について、ご理解のためにある話を挿入しておこう。

もう、25年は前の事かと思われる。NHKテレビで二人の女性アナウンサーが謙虚にも神妙な面持ちで次のようなことを話し合っていた。

「私たちはこうして各界の偉い方々と同席する機会が多い。するとどうしても自分たちも同じレベルにいるような気がしてしまうがそれは思い上がりと言うもので、気をつけなければならない。」と。ところが現代は「女子アナ」は一般的に見上げられる存在となっている。嘗ての「思い上がり」が今では「実質を伴ったもの」とされるに至っているのである。

現代に輝く若い被写体人間の方々に、上記の謙虚な台詞は全然ピンと来ないのではないか?(というのも、私には「輝く」という言い方が気に入らないぐらいだからである。)

私たちは音楽という包装紙に包まれてその中の物よろしく暖かくなったり涼しくなったり、はたまた美しく見られたり醜く見られたり輝いたり曇ったりする。今「醜く見られたり」と書いたが、これは決して「音楽は美しくあらねばならない」の条件に反しない。醜かろうとなんであろうと「表象」の枠に収まるということが、すでに美であることを保証してくれるのである(テレビやスマホなど、画面という画面にことごとく美しさを感じる方々は確実にいるはずである)。そしてそれは同時に、元に戻って「空っぽのメディアである音楽」は常に美しいということにもなる。透明な鏡や水は汚れがないということであり、だから美しいということにされるのだ。

「音楽は音と音との関係だ」と、音楽家の優秀な卵を相手に繰り返していた音楽学者の野村良雄氏の事が思い出されるが、一音一音の美しさを求めて練習を繰り返すヴァイオリニストの努力は、まさに美の基本の基本に帰依する行為といえよう。それは「美人の基本は先ずは肌の美しさからよ」という美学なのである。「美学」がオーバーならば「肌の自己主張」と言い直そう。

 

物語の介入もまた

映画音楽や劇伴でなくとも、音楽は設えられた物語によっても如何様にも聞こえ得る。佐村河内守の物語、続いて新垣隆の物語は、楽曲の、はたまた音楽の底上げに寄与したし、寄与している。物語はこの時、音楽にとっての環境として作用する。ところが、先に言った通り音楽そのものがもともと環境的性質をもっているから、環境の入れ子構造が生じることに成る。こうなると、もうよほど楽曲への集中力を持たないと、音楽だけを相手にすることからして難しくなる。

そうなると聴き手にとって音楽は雰囲気の作り役、あるいは雰囲気そのものにされてしまう。だが、折角の「総合芸術」のこと、全体として味わえるものなら味わった方が得で、音楽自体や楽曲自体を掴みだし評価するなど「野暮だ」「愚の骨頂だ」ということになる。

このように、もともとが「有るようで無く、無いようで有るもの」「事実でないようなあるようなあいまいないな現象」という性格を持つ音楽には、じゃあ、「本物のでっち上げ作品」や「本物のでっち上げ行為」など認められるのだろうか?

以下、この悪い意味でのでっち上げのことを「捏造」という言葉で示す。音楽をはじめとする芸術がメディアでもあるがゆえに宿命的に持つ悪くない意味での「デッチアゲ」と峻別するためである。

遠回りになるが、絵画の場面でもう一度「捏造」の事実を洗ってみよう。

 

絵画に照らして考えてみよう。

普通、「有りもしないものをあるかのように見せる」ということは悪いこととされている。「なんとか形だけは作り上げる」という直接的行為も。

先にも言った通り、現実生活に於いて「よき方便としての嘘」は当然認められるべきなのであるが、他方「悪い嘘」「許されざる捏造」というものは厳然とある。

絵画に於いても、写生画をはじめ、対象物のある具象画は一般の人々を安心させる。もともと、それこそが写真の強みであったが、最近はいろいろな技術の混入、またいろいろな受け取り方の混入でかなり座りが悪くなっている。だが、高尚な芸術ジャンルの一角を形成する抽象絵画(非対象絵画)は、一般からはさらに敬遠されがちだし,理解困難であることに変わりはないようである。

抽象絵画の素晴らしさは、対象物が無いのに「何物にも依存せずに作品として成り立っている様(さま)」にあると言えよう。だがもちろん、カンバスなどの支持体に絵の具が付着しているだけで作品だとすることは出来ない。もし「それを作品と感じる人がいれば作品だ。少なくともその人にとっては」などと平板にも主張する人がいるとしたら、その人はこれ以上読み進まない方がよい。その方にとっても時間は大切だろうし、こちらとしてもいい加減な読者や鑑賞者を想定して書いているわけではないからである。

ある作品が作品として成り立っているのはちゃんとした訳があるのだ。

ところで、その作品がまだ誰にも見られていないのならば、まだその作品が存在しているとは言い難い。だが、製作段階とその最後の一瞬、作者自身にしっかり見られているのである(主観的面を伴いながらも、たいていは誰よりも真剣に)。

伝えられるべきものがある、つまり何か表現されるべきものがあって、画面がそのメディアと成り得ているか?あるいは構築性における力強さとか力強い存在感を持ち得ているか?別に力強さへの傾きは無くとも、美は立派に実現しているか?

単に絵画らしき形をしている、というのでなく、観る者に対し絵画らしい働きかけをなし得ているかどうか?

もしこれらの条件の一つも満たしていなければ、それは「絵になってない」(作者の力不足によるものは外す)つまり「絵画的事実はないのに絵画であるかのように装ったもの」だから「捏造されたもの」とされても仕方ないのではないか。たとえ本人にその意思はなくとも、また、人の物をパクッた痕跡は一切なくとも、である。

ただし、近年は装飾的な、あるいは雰囲気つくり的な、要するに環境音楽のような造形作品も一般化している。

 

ここは音楽の場合に戻り、捏造を考えてみよう。

(あまり何もかもに当たっている暇はない。作者の力不足による作品は論から外す。)

 

デザイン的な音楽が主流になっているようだが

さて、こっちはこっちで、最近、音楽のデザイン志向がますますはっきりして来ている。せっかくの時間を空間のように受け止め、作曲のための便法である五線紙(五線紙とは限らないが)を悪用してデザインを施すのである。この世に生きる以上作曲時の人間も時間の今から一瞬たりとも脱出できないのに、時間を空間よろしく対象化してしまうのである。自分の方が時間から脱却しての事なら良いが、時間を空間へと貶めることで時間を支配下に置こうとする*。

*ここでも次の事を挿入しておきたい。

少し長くなるが、LMホームページの哲学コーナーの一文からのコピペ-

「このお薬は良く出来ている。使用されている材料も選び抜かれた高価なものであり、その組み合わせも、ミクロレベルから見てもマクロレベルから見ても完璧に近い。実物や顕微鏡写真や、成分一覧票を見ているだけでも、その美しさにほれぼれしてしまう。」という言辞が完全にピント狂いであることは誰でもわかろうが、このお薬を個々の現代音楽に置き換えると、皮肉なことにピントはかなりあってくるのである(「21世紀の今、作曲の本道に則った作曲を!」からのコピペはここまで)。

このようなわけだから、審査に耐えうる楽譜、譜面審査する立場の嗜好に叶う楽譜となると、「デザイン系の楽曲」が有利に決まっている。また、そのような審査の仕方は、縷々述べた、音楽の環境のような、包み紙のような、雰囲気のような、何も意味しないような、要するにあいまいあやふやな状態を排除することであり、その実質、本質的な価値を守ることであるかのようにも見える。

だが、実際は全く違う。このような行為と、音楽のあいまいさあやふやさを大事にし、活用、利用する行為とは、実は一つの事の両面なのである。敵味方に分かれているように見えて、実は仲良く協力し合っているのである。一人の審査員の頭の中で、既にこのような仕組みになっているのである。

楽譜に集中することで曖昧さを退けて置き、他方、楽譜を退けておくことで音楽という入れ物に、いろいろなものを入れ込み、その上で評価する。

まったく審査員というものは、いや、上位入賞者も含め、人間というのは恐ろしいものなのである。とともに、現代人の頭の中や現代世界の混迷の仕掛け仕組みが覗けるような気がする。両極に分かれ、戦いに見せかけた共犯行為。それでも、良い方向へ向かっていると言える方がおられるだろうか。

また、これは男性性と女性性との関係にも言え、当今はニューハーフタレントなどのように具体的姿を採って外へと噴出してきている始末である。多くの人々が楽しんでいる様子であるが、ご本人たち以外、別にこれが良い方向だと信じているわけでもなさそうだ。

ニューハーフ人間は、女として見ても楽しめる。それに飽きて来かけたところで自然と男に見えてきて新鮮だ」とか「いや、一人の人間なのに男女二重写しに見えるところが良い」などと言ったって、その「男らしさ」「女らしさ」には本物らしさが欠けている。

「楽譜としては緻密」だし、「音響に身をゆだねればよい雰囲気に浸れる」といった出品作があったとしても、肝心の音楽としての価値は問われずじまいだ。

魅力的なニューハーフにしても、可愛らしい包装紙に包まれた凝ったお菓子にしても、土台、消費材であり、しかも寿命は短い道理があるのだ。もちろん、消費者の嗜好の変化に寄り添うことで延命を図ることは可能であるが、そこはお米や野菜や魚や肉とは違い、ひ弱な加工品であり、末路は避けられないのである。

芸術の名に値するのは、「永遠」(=永遠界)からの力が及ぶ域に達したものに限るのでは無かろうか。

いや、話が広がりすぎたし、結論を出すには一拍速すぎる。

元の文脈に戻ろう。

 

楽曲審査と相性のいいデザイン音楽

これでは時間芸術の王様」たる音楽が泣こうというものである。これはもう、音楽がもともと持っている親パクリ性、親デッチアゲ性とは全く別の、立派な悪い意味としてのでっち上げ、いや、「捏造」である。

しかも、目の前の「時間カンバス」に音模様を定着して行くのであるから、どうしても既知のものを持ち込みやすい。それも、人々の記憶の層にある目立ちやすいものを選んで。残る腕の見せ所は「組立て上手」といったところだ。そしてこれは、皮肉なことに審査しやすい。素材がそれとわかる既知の物であれば、「組み立て方」をより目立たせることもできるし、審査する方も「客観性」に自信が持てるゲームに近くなるのである。

また、もう一つ、やはり「創造的価値」には審査される方もする方もあこがれはするが、「根拠あっての事実であり、捏造でないことを保証してくれる客観的な支えがほしい」という気持ちも双方に強い。こんなところからも既知、既存の素材の導入、コンセプトの導入、作り方の導入が行われやすい。導入は援用と置き換えても良かろう。そして「パクリ」とも。

こう考えると、どっちへころんでもパクリや捏造を避けにくい。

本家本物のデザインに対しては怖い鬼女(←既婚女性)が待ち構えてもいるが、現代音楽では女性作曲家がそちらの仕事に移りでもしないかぎり大丈夫だろう(*かのデザイナー佐野研二郎氏のオリンピックエンブレムを取り下げに至らしめたネット集団。余談で恐縮だが、私見では氏の最終案はなかなか良い。「どう作られたか」よりも「作品としてどうか」「どれだけの効果を発揮しそうか」を問題にしてほしい。そういう意味で、新しいエンブレムとしてあれを上回るものが出現し、また選ばれるに至るかどうか、かなり疑問である)。

ここまで読み進んで来られた方々の中には「ロクリアンふざけている」と思われる人や、中には「いかれている」「狂っている」と思う方々もいらっしゃるかもしれないが、私の上記の指摘は本当のことかもしれません。

以下、話を続けましょう(文責は私にある。だから「話を続けさせていただく」などと卑怯な言い回しはしない)。

とにかく、今はまだ「鬼女」は現代音楽の領域にはいない。だから審査される方もする方も、お互い“根拠がほしい”ので知られているものを引用したり、引用させるということに歯止めが効かない。いきおいパクリにも甘くなりがちだ

論文の場合は、既存の説や参考資料の引用は説得力強化のためにむしろ好ましく、出典元を明記すればパクリとされることはない。

音楽の場合、音楽の最中に引用元を言葉でアナウンスするわけにはゆかない。だからパクリが増える、という理屈もあり得る。

 

現代音楽は悪い意味でのパクリや捏造の解放区か

やはり現代音楽は捏造天国となりがちだ。

捏造はパクリ(=断りもなしに既存の物、過去の遺産をそのまま持ち込むこと。「ネットで瞬時に」などと言ったって、わずか0.001秒でも過去は過去に違いない。大事なものは未来から飛び込んで来る、生き生きした新鮮な楽音の筈だが)と仲が良いからだ。

もちろん、パクリとは無関係な捏造もありうるが、それについては言及済み。

「捏造とは、有りもしないものをあるかのように設えること」、とすると、音を素材として対象化することからして既に捏造くさい。なぜなら、その場合、作者自身も聞き手自身もそこには入らないので、音は彼らから切り離され客体物と化してしまう。

視覚が色や形に対する時はそれでよい。耳と違うところの目の特性には叶ってからである。

しかし、本来、聴覚はなによりも音が生まれ来る現場に立ちあおうとする。

音楽の現場は内界にある。人は音波に刺激され音を催し、内的ドラマを引き起こし、意識という鏡にそれらを投影するという、ミクロ的に見れば一音一音についてからして、結構、緩慢な過程を踏む。要するに十分な妊娠期間を経たうえでの対象化される音や音楽であって、はじめて生命としてのまとまりを持ったものということができるのだ。赤ん坊のように、である。

だが、始めから音を対象化して取扱い、また抽出的に聴く、いや“視て”しまおうとは、これ如何に?

ここまで、音楽のもともと持っている親パクリ性、親デッチアゲ性について断ったうえで、さらに、ドすぎたパクリや捏造による落第音楽(音楽以前、楽曲以前のもの)についても語った。そこでは暗に、音楽以外の芸術ジャンルは音楽ほどの抽象性、透明性はないがゆえに上に述べたような性質はより弱い、ということを示唆しておいたつもりだ。

だが、早い話、パクリ性や捏造性、いや、デッチアゲ性からさえほど遠い、そういう意味で他の芸術ジャンル(の作品)に負けない、しっかりとした実体を備えた音楽は存在しないのか?

存在するとしたら、どういうものなのか、を探究しよう。

 

その一例として‐

来る2015年11月18日(水)にオペラシティリサイタルホールで発表する拙作の検討を試みよう。

 「時を貫く“南無阿弥陀仏”」(編成:バス歌手、クラリネット、ファゴット、チェロ、マリンバ、指揮者)について

まず、「南無阿弥陀仏」の意味であるが、ネットからコピペさせていただくと次の通り-

阿弥陀仏に対して敬礼する」という意。6字から成るので,これを六字名号 (みょうごう) と称するが,同じ阿弥陀仏に対する帰依を表わした「南無不可思議光如来」を九字名号,「帰命尽十方無礙光如来」を十字名号などという。

 数年前、私は「南無阿弥陀仏」と題する楽曲を、演奏媒体を変えながら連作していた。ところが、その最後の物については5分ぐらい書いたところでストップを余儀なくされた。その曲の持つそこまでの発展的持続を保たせつつ書き進めなくなったのだ。

それから5年以上たった今年、久々作曲を再開、納得の行く冒頭部分を得たことで気をよくし、以前よりも強い圧力をかけて作曲を進め完成させたものが本作品である。

タイトルは完成後に決めたが、単なる「南無阿弥陀仏」ではないコンセプトの由来は、実は数年前の作曲の開始前からあった。

去年今年 貫く棒の 如きもの 

言わずと知れた高浜虚子の名句である。彼が日本作曲界フランス楽派の草分け的存在、池内友次郎氏の父であることは良く知られているが、その池内の高弟でもあった私の師、松村禎三が賞揚してやまなかったのが上の句である。

高浜虚子のこの句に始めて出会った時、私は強い衝撃を受けた。そして今でもこの句のことを平静な気持ちでは思い返せないのである。

“棒の如きもの”―“もの“という最も非個性的な言葉を使ってズバリと太太しい提示がなされているのであるが、それが具体的に何であるのか皆目わからない。しかも読んだ途端に提示されているものがはっきりと実感出来、生まれたときから、いうなれば先験的にそれが分かっていたように納得がいくのである。時間の持続が暦という関門-節目を通り抜けていく在り方、と言えば一応説明がつくのであるが、その実感を”棒の如きもの“とつかまえて現実のものとして存在(傍点が付してある)させている(決して観念ではない)ことの非凡さは驚嘆するばかりである。(後略) -松村禎三

(以上、師から渡されたコピーによる。専門誌か何かに掲載されたもののようだ)

 敬愛する句作の舞台裏を洞察してみる

私の読み解きではこうなる。

貫く、というとなにか貫かれる物がまずあって、少なくとも相対的には静止感をもってあるのだが、貫く方はいかにも動的、それも前進的である。

暦(カレンダー)とは、もちろん人間意識の所産であり、正確には同時的に空間化される仕方で表象された観念である。固定的イメージと言ってしまってもそれほど難は無い。ここで早速、楽譜の事を連想される方々も多いだろうが、それはいったん置いておこう。

貫く動体を「今」とすれば、それは如何にも暦を貫き進むもののように見えもしよう。それはレールの上を走る電車に例えるなら自然だが、そこにポンと「棒の如きもの」を置く武骨さは、途轍もない抵抗として働く。「貫く」という動的な様に対する、そのとんだ否定力!

時間軸上に沿って寝かされた動じないもの、時間の軌道そのもの、電車ではなくレールのようなものを連想させられる。しかし、それは連想の淡さのゆえか、次の瞬間には「時間の黒幕か?」といった意識替わりが起きたりする。

「棒の如きもの」は漠としていながら作者の確固とした信念が露わで、それは観念の中心を占め、人々を圧倒しもする。

 

現在≠今として時間を斬る

最近、私は「八木哲学の生体解剖からロクリアン哲学へ」という批評文(主に批判的)を書いた。

それは文字数12万にも及ぶ大部のものだが、そこで、「現在」と「今」の言語を使い分ける仕方で、この同じようなもの二つを定義し分けているところがある。

ここで、簡単に言うと、

現在」は、永遠に属するものであると同時にこの世との接触点のこと

」は、この世における時間の最先端のこと

(「現在」と「今」、二つの名前があるので、二種の定義に勝手に割り振らせていただいた次第)

勿論、我々一般は普段、現在や今に前者の意味を感じることはまずない。暦のようなものを持って来れば、現在や今の動的な性格が自ずと浮かんでしまおうというものだ。

しかし、それをいくらなんでも「貫く棒」とするのは余ほどのことだ。

「貫く棒」の方がすごいのか、それとも「貫かれる盾、いや暦」の方がすごいのか?

 

暦を支点として考えを巡らせよう

どうやら、曲者(くせもの)は暦の方らしい(ついでに楽譜も曲者だが置いておこう)。

だが、暦観念がいかほどのものだろうか。(あの屁理「アキレスと亀」のゼノンじゃないが、有りもしない杭を立てているだけではないか?)

そもそも我々が、時間という動く何かを感じるのはどうしてであろうか?

それは、現象の中に埋没しない不動のもの「現在」に我々の存在者としての芯が帰属しているからである。

逆に言うと、我々がその不動の現在に帰属しているからこそ現象というものが意識され得るのである。

「自分自身の意識も現象であり変化もする」と人々は感じがちだが、それは自分の意識の客体化された方についてであって、その手前には自身動かない主観自体ともいうべき意識が扇の要のようにでんと控えているのである。だからやはり、意識の本質は不動性にある、と言って良かろう。

一方、暦は万事万象の向こうにある(常に移動回転し続けている)時間に付けられた目盛りのようなものだと言うことが出来よう。

 

「現在」を立てる

つまり不動の現在がこの世を射る「今」という子供を並べたものが、年の変わり目、月の変わり目をはじめとするカレンダーや時計の文字盤なのである。暦とはそんな意識が発する“視線を目盛ったもの”と言って良いだろう。

そんな「今の並び」という客体に過ぎぬものを主体たるもの「現在」が貫く、というのは如何にも逆さま表現でありトリッキーである。

ただ、トリックはおおいに楽しく面白い。だからこの句はもてる。その短さゆえ、説明の義務から免れるどころか、説明しないところこそ信条とされている俳句の分野では、トリックは主要な手法の一つかと、はた目にも思われよう(私のかつて愛した野村良夫先生が、藝大の古き時代の第六ホールでの「音楽美学」という講義で「カトリックか?トリックか?」と得意げに言っていたことが懐かしい。多くの学生が「話のレベルが高すぎる」とこぼしていたものだ。そこにはかの近藤譲や将来の藝大音楽学部長でピアニストの植田克己もいたな。また、ついで語りで恐縮だが、あのナンジュン・パイクが「あの人は大きな人ですね。」と私に向けて語ったことがあった)。

とにかく、遂次の「今」なんて、実は永遠の「現在」からこの世に差し込む影がもとになったところのもの、この世の我々にとっては光か雨の如きものであり、またその存在(深く読めば現象)も保証されているものである。そして、人はそのような上からの均等な棒線グラフを横に伸びる水平な折れ線グラフと、無意識裡に読み替えてしまうのだ。

高浜虚子先生はそこに付け込んだのだろうか?

 

作者の虚偽か錯誤か、それとも-

とにかく、万事万物や時間空間に先立って泰然自若と存在しているものを彼は直観している。そっちが先だろうに、あえて、一般人に合わせて「貫く」と

言い、一方、単に「もの」とか「存在」とかせずに「棒」を持って来て「如きもの」で締める。うまいなあ!

だから「貫く」なんて表現は虚偽なのだ。故意ならば虚偽、だが、ご本人、心底そう思っているならば錯誤、ないし誤謬というべきだろう。

この句は、松村はじめとする人々に「貫きの主体は時間の方」と思わせる。

そして、「貫く棒のごときもの」に「影」か「現在」か「永遠」などという概念やイメージを連想出来ぬままにそれらを飛び越え、何か得体のしれないものを覚え、恐れ、そしてこの句を尊敬するのである(松村をして「現実のものとして存在させている(決して観念ではない)」と言わしめる所以である)

実相に即して時間と言うものを考えれば、そのようなものを「棒」などと実体化して見せるなど、真相に反するもいいところで、虚子はやりたい放題の芸術家ぶりある。

だが、虚偽にしては、悪びれず、いや、それどころか正当であるかのように堂々と差し出している、そういう人間の勇気ある様に、人々は大物の風格を覚える。

ただ、これ、早い話、上のような分析的思考を経ての句作であろうか。そうでなければ、虚偽とは言えない。

では、「時間」と「永遠」を取り違えた「錯誤」であろうか?そうですらないかもしれない。

 

だからこそ、この句はこれほど武骨で力強いのじゃないか。真相はご本人でなければわからないが、私が縷々述べてきたようなことではなく、ある優れた瞬間の訪れで彼の存在が彼自身に一挙に捉えられ言葉となったということかもしれないもっと正しくは、まさに瞬間的な一陣の風(言霊)の仕業であり、虚子は単にメモっただけかも?

 

去年今年 貫く男 ここに在り

 これは絶対に女性からは出て来ない句だろう。もちろん「~貫く女~」と直しての話である。もし女性から提示されたら、すぐにパクリと「直覚」されるタイプのものだ。捏造?いや、こんなものを捏造したいなどと思う変な女性はおられないだろうし、いてほしくない!

だが、彼にとっては虚偽でもなく、錯誤でもなく、もしかしたら「作」品ですらなかったかもしれない。

だが、受け取る側からすれば、名「作」であり、大虚(おおうそ)感は健在だ。

しかも、これはオリジナルの大嘘であり、パクリの大嘘よりもずっと罪深いかもしれない。しかし、だからと言って「芸術」に抵触しはしない。むしろ、高尚な大嘘は「芸術」の価値を広め深め高めさえするだろう。土台かつ所詮、芸術は虚構である。現実とは違うのだ。科学でさえ、根本的には虚構であることを思えば、本当に芸術らしい芸術は「大虚構」であるべきなのかもしれない。

さて、この節の締めとして述べる次の言葉は大嘘だろうか?

“とにかく、「現在」そのものという時間を超えて存在するものには、この世の未来・今・過去の三時世の区別など通用しない。

この世から見れば、本質的に動かざるものである、停止そのもの、としておくにしくは無い。“

いずれにしても、上の句への拘りは私がもともと時間、死、芸術、音楽、についての根深い関心というより、そういうものから逆に問われているような感覚から必然的に起きたものである。

 

演奏行為者の内部におけるオカルト的現実とは

上の私の述べた理屈からすれば、演奏が楽譜を貫いて進むのではなく、この三次元空間よりも次元の高い空間にある楽譜が内なる音となってこの世に降りてくるのを受けて、それに従って外へ向けて音出し操作をするのが演奏と言うものである。

ただし、即興演奏の場合、楽譜音楽に匹敵するほどの音楽を実行できるのであれば、それはいかにも「棒のごとく貫いている」と言いたくもなる。

といって、なにも年始を迎える直前から演奏する必要はない。
各瞬間を貫くほどの即興演奏であれば、と言うことなのである。
上から降ってゆく瞬間瞬間の一条の光線。あるいは雨、
その雨を伝って、過去からの延長よろしく前へと泳ぎ進む
あるいは、一条の光線からその次の一条の光線へと移りゆく、不思議なトンボ、粒子。

ただし、そんな超越的な即興演奏者なら、その内側の中心は扇の要よろしく「泰然自若とした現在」そのものとして不動のままなのだから、やはり「時間の先端として横に貫く」などと言う感じ方は、演奏者の見た目の動き等々に引きずられた受け手の錯覚と言うべきなのだろう(「バッハの即興演奏に立ち会えたらなあ」)。

 

「暦を貫く時間」ではなく「時間を貫く何か」こそ!

今回の私の作曲の場合であるが、やはり上から遂次降りてくるものがじかに感じられるようにし、それに成功しただろう頃にこのタイトルをつけたのには必然性があった。

しかも、「時間が暦を貫く」のではなく「時間を貫く何か、時間を超えた大いなる機構*に忠実に」の思いで続けた作曲も、またこのタイトル選びも成功であったと言えそうだ。*その機構こそ「南無阿弥陀仏」という念仏でのつながり合いを支え保証してくれるもの、と位置づけられようか。

また、はじめの方で、「作曲は“でっち上げであり”だからパクリ解放区だ」などと言ったが、それは現代音楽界隈向けの言葉であった。

同界隈は界隈として、物する楽曲を芸術の名に値するものにしたければ、やはりでっち上げではだめなのだ。それは「大嘘」とは違う。また、パクリを経たとしても、それを超え出ていなければだめだ。

 

本作の一楽節としての「ミワノヨロコビ」はパクリか?

実はこの曲では、後半に「ミワノヨロコビ」という一楽節(8分過ぎからの10秒程度の区間)がある。これはある芥川作曲賞受賞作から受けた私のイメージを持ち込んだものだが、パクリと言われ難い点は元の曲への依存性が全然ないことである。

なお、そこでは、作曲コンクールでもてはやされるデザイン系で、一つのコンセプトのもとに引き伸ばされた一本調子の作品の批判的善用、という部分的意図を働かしている。

いずれにしても私の作曲がいかにもパクリと無縁であることは、逆説的だが、ネット動画で出しているパクリないし引用っぽいタイトルの「余ハン・ロクリアン・ロクリアン・バッハ・デス」と言う楽曲をお聴きになった多くの方々に認めていただいていることである。

なお、ご愛嬌とはなるが、この「時を貫く“南無阿弥陀仏”」には副題がある。

それは、「ハロー! アイム ロクリアン ベートーヴェン」である。ベートーヴェンと言えばジャジャジャジャーンであるし、絶対音感のある方が全曲を聴き、なおかつ冒頭と末尾の音に着目されれば、深々と首肯されるはずなのである。これについても「ベートーヴェンからのパクリ」の悪口は生じ得ないだろう。

 

悪意の改竄から愚過多腫汚(おろかたはれお)の誕生とその後

パクリや捏造は、実は現代音楽だけの問題ではない。ほとんどあらゆる世界で跋扈(ばっこ)していると言っても過言ではないぐらいだろう。その原因の一番根本的な部分は「人類共生本能」(LM造語?)に求められよう。それの短絡的関与だと私は思う。

この世界的現象の中、社会の倫理的水準の低下を端的に暴露している一人の実在の人物について語らねばならない。

この人物、そのような世間を上手く泳ごうとしてか、本来、意識に持つべき基準、あるいは支点が完全にずれた、あるいは壊れてしまった、というよりも年齢的に見てそれが未だまともに形成されていないことを示す行いがあった。

私はその男を愚過多腫汚(おろかたはれお)と呼んでいる。モデルは評論家であるが、もう4年ほど前の事であろうか、彼は次のようなメールをよこしてきたのである。

「正岡さん!私はあなたの事を宇宙的な大きな人かと思っていたが、今回の拘りようにはあきれました。だからネットへ『人体ソナタ』をアップするのをやめました。」

あるカトリック系雑誌があり、私が「神に存在力を思う」というタイトルのエッセーを編集人に送った。ところが掲載雑誌を見ると、タイトルは「『神の存在力』を思う」と無断で変更、要するに改竄されており、意図的であることは疑いようもなかったのである。如何にも「カトリック」の理屈に沿ったものであるから、その意図には個人的感情を超えたものすら認められる。

(誤解があってはならないので雑誌名を記しておく。

「福音と社会」Vol254 発行 カトリック社会問題研究所 なお、Vol.256 にて「お詫びと訂正」、そして著者による再寄稿が掲載されている)

誰が考えてもわかることだが、およそ物や事の表示を勝手に変えるなどされては、世の中めちゃくちゃだ。まさに、文化的交通事故を故意に起こすようなものだが、文化の場合にはそれは同時にひき逃げでもあるのだから一層たちが悪い

これは放置してはならない-といってもひき逃げを食い止めることしかできない理屈だが-と、私は某音楽会におけるレクチャーの中で大々的に言及した。愚過多腫男本人が一部司会も担当し、レクチャー中、彼が客席にいたことをちゃんと確認した上でのことである。-

そこで私は「評論家オロカタハレオのこのような低劣な意識は抹殺されねばならない」と糾弾しておいたにも関わらず、彼は名乗りでることさえしない愚かさ、あるいは出来ぬ臆病さを示したままなのである。

小保方晴子のパクリや改竄からの論文捏造は世間を驚かしたものだが問題はその欲望の肥大ぶりにあった。

一方、編集人の故意に人のタイトルを改竄するなど、歪んだ攻撃性の仕業と思われる。

そして、それについて「宇宙人だと思っていたのにタイトルのコレッポッチの違いにこだわるとは幻滅した」という受け止め方をするとは、小学生の男の子ほどの幼稚さだといえよう。

ところが、そういう人間でも評論家が務まるのである。

まさに、人をでっち上げる(捏造する)時代と言うことだ。

でっち上げの定義にもいろいろニュアンスの違いがあったが、ここでは

「なんとか形だけは作り上げる」というのが一番ふさわしい。

要するに、それらしく装えば、評論家も務まる、と言うわけだ。

 

ここで話はうまくまとまる。

現代音楽と言ったって、生まれつきの現代音楽作曲家などいるわけがない。

土台、現代音楽なんてそのようなジャンルではない。典型性も失われている

ただ、現代音楽と言う集合名詞のもとに作曲家があつまりお互いをそう呼び合っているだけだ。

だから上記のような分けのわからない評論家の跋扈を許すのである。もちろん、彼のこのような姿は決して個性の外化によるものではない。環境の力に与ろうとして染めこまれた特徴にほかならない。

憐れんだ私は次のように返信しておいた。

「お主のような意識の低い人間でも、それよりはましな行為を繰り返すことによって、肝心の意識も上がり始める、ということがあるから頑張れよ!」と。

 

演奏家にとっての意識と、作曲家にとっての意識の違いについて

このことに関し、演奏家と作曲家とでは話が違うようだ。

演奏家は名曲のテキストを与えられている。子供の意識など、当初はたかが知れていても、名曲に相応しい音楽を目指して練習から本番へと向上の努力を繰り返すことで、年を経るごとに意識が磨かれてゆくということがあると思う。そこでは指導者からの影響も大きく作用するだろうが、音楽以外の事象に対しても、確たる基準ある立派な価値観を持った人間に育つことさえ期待され得るのではないか。

 

ところが、作曲の場合、もちろん子供の時には名曲からの影響で意識が高まるということはあろうが、長じていざ作曲となると、のっけから意識の高さが必要となる。

もちろん、本人の意識を超える高さの曲つくりが出来る人間はいないわけではない。才能とはそんなものであり、その種の天才は現在でも存在するようだ。ただ、優れた作曲行為を繰り返すだけで、音楽以外の範囲に及ぶ意識全体が高まりを示すということは、なかなか起こらないように思える。

作曲家の現役人生せいぜい80年として、より良い曲作りに励むだけで精一杯で、「“自分自身の意識の全体的向上”に時間を費やすなんて暇なことはやってられない」とか、「意識を高めてから改めて作曲に着手するつもりが、作曲がばかばかしくなって別の仕事を始めそうだ」とか、自分を顧み現実を考慮してのいろいろな思いもあろう。

 

まともな音楽作品をつかみ損なう作曲審査

それから、このような環境の結果というばかりではなく、偏向の原因ともなっている事柄として、楽曲審査についても言及しなければならない。

(以下三件につき、募集要項に沿って提出、審査の俎上に載ったものばかりである)

私の「地球を救う聖女“キャシリアン”」を早々に落とした審査会があった。

これは「ロクリアン正岡作品集Ⅳ」に収録されている(全国各地の図書館に所蔵)。

「サクソフォーン八重奏曲“ライオン”」を早々に落とした審査会があった。

これはネット動画で配信中。

そして、今年(2015年)は芥川作曲賞に提出した弦楽オーケストラ曲「異次元航路」が、やはり早々に落とされている。

明確な年齢制限はなく、「新進作曲家のための」といった断りがあるが、「『異次元航路』は若さと余力とに満ちた、作曲そのものの今後の発展を期待させずにはおかないタイプの楽曲であり音楽である」とは私の親友の言である。

もちろん、私自身、“新進ぶり”において若い方々に負けてはいないつもりである。今回の文章でお分かりかもしれないが、夢も大きい方(ほう)のような気がする。

これも、ネット動画で配信中なので、そこら辺のところをお調べいただければ幸いである。また、確たる根拠のある反論、批判など頂けるに至れば、一層幸いである。

 

終りに 

以上、一回分の文章としては長すぎるぐらい書き綴ってきたが、その過程で私自身普段それほどしっかりとは意識していなかったことを考えることにもなった。

 

それは、音楽というもののメディア性に着目すれば、パクリやデッチアゲと隣り合わせの位置にあるということである。

そのような空の器のような性格、あるいは性能を一番活かしつつ、その空虚さから脱却させるには、上なる泉、「現在」という永遠界をバックにした上なる支点から湧き出てくる「音楽の種」を入れ込んでやるのが絶対的に有効であり、それは多くの作曲家に開かれた、前途洋々たる作曲の道ではなかろうか?!

 

ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」の翻訳本の序に豊島良与志雄の文章に次のような箇所がある。

 

「しかしそこにはさらに本質的な暗雲が深く立ち込めていた。(中略)視界を広げるの努力より、視界を清めるの努力となってきた。外皮を脱するの苦しみより、肉身を洗うの苦しみとなってきた。個性の確立への目覚めより、個性の尊厳への目覚めとなってきた」

 

とにかく世の中は読者のお一人お一人が知る通り、 “薄汚い”というべきか、“薄綺麗”(ウスギレイ:LM造語)と言うべきか、そんな猛煙が充満している現況にある。もとより、現代音楽の世界から作品に至るまでも、それと一緒なのかもしれない。そのような空気を吸わされれば誰でもが苦しい。「自分自身も猛煙を発する」のは、それに耐え生存を続ける一つの有効な手立てとも言えようか?私の場合は今綴っているこの文章で「発して」いるのだが、それは読者にとって汚いものか綺麗なものか、はたまた猛煙か春風か、ご意見は分かれるところかもしれない。

 

ずっと以前から「芸術というものが分からない。概念がつかめない」という愚痴のような話は良く聞かされるし、「音楽は芸術である必要はない。(ただし優雅でなければならない)」とは、松村経由で知らされた彼の師の言葉であり、「何が芸術だ!」という暴言をあらぬ偉人から吐かれたこともあった。このような意見が日本人に多いのは、「芸術(藝術)」という言葉が西洋から入ってきた言葉の翻訳語であり、その疎遠さゆえに概念にまで立ち入らずにうやむやにしたまま来てしまったことの現れのような気がしてならない。ならば、「和魂かつ洋才」は今も生きているかといえば、「今どき和魂などどこにある?」と人ごとのように感じている日本人が多い様子である。

以上もなかなかの「猛煙」だが、そうなのだ。猛煙に耐えるには「神経麻痺」に身をゆだねるか、「マスク」を着用するなど自己鈍感化に努めるか、逆に「自己実現」「自己顕示」などの積極欲求(これもLM造語か)を募らせるか、結構、各種の方法、手段があるようである。

 

話を元に戻そう。

いったい芸術とは何だったろうか?芸術家とは何だったろうか?

ここは、“永遠への換気口”(LM造語)にて安らい続ける「芸術家個人」としての在り方に則り、文章を綴らせていただいた。

終戦の年、父親から「いつまでも平和な世の中が続くように!」と預けられた名前の通り、「泰千代*した」という次第である。

 

以上、主体解剖学的方法による –ただ、この話は止む性格のものではない。

2015.9.22 ろくりあん まさおか

 

注:なお、本稿はLM造語(断ってない場合もある)も多く、奇想天外な印象が先に立つなど理解困難な性格を少なからず持っているのでは、と私自身、危惧しております。

さらなるご理解のためには、どうかLMのホームページの哲学の欄に掲載してある諸論文ないしエッセイをお読みくださいますよう。

また、私の場合、楽曲にしても、その背景にある理念は文章の場合と一緒です。

つまり、主体解剖学的です。なお、「主体解剖学」は全くのLM造語のつもりだが、既に誰かが発し一部で使いまわされている名詞なのかもしれない。

 

*「泰千代(やすちよ)」の名前の由来については、ホームページの哲学コーナーの次の資料をご参照ください。

後述「八木哲学の生体解剖からロクリアン哲学へ」の参考資料として、

「オウム(真理教)の持つ反芸術的傾向」について語った公明新聞文化欄の拙文

 

追記:

一)本当に良い音楽とは?

現代音楽ではそのようなものは少ない。

せいぜいが、一度聴いただけで「良い」と感じられるが

あえて二度以上聞くと、聴く都度に印象が劣化して行く。

ただし、生年月日でシェーンベルク以降、の作曲家では、ラヴェル、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、メシアン、そうではない作品が少なからず含まれている。またそれ以外の作曲家の作品にも同様のものが散見される。幸いなことに、この日本にも。

 

だが、心を養ってくれる作品となるとどうだろう。

たとえ、二度以上聴かれなくとも人の心に記憶され、自ずから再生咀嚼され、その血肉となるもの。

さらには、たとえ思い出すことすらなく放っておかれてもためになる作品、象徴的に言えば、寝ている時にも自分自身に栄養を与え続け心を養ってくれるような作品、となると、私の知る限り、皆無かもしれない。御三家(バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン)にはそういう作品がいくらも見つかるのであるが。

そう、俳句なら、虚子のあの句は、その線に肉薄するものかもしれない

でなければ、私にあのような主体解剖学的方法は駆使できなかったはずである。

 

さて、現代の人間、現代音楽の作曲家だからといって、それをあきらめることは正当だろうか?

私には、「数百年やそこらで、人間の脳に限ってみても、有意といえるほどの生物学的進化や劣化などあるわけない」と思える。

その部分、あきらめていない私LMにしたって、だから、咎められるいわれはないのである。

こういう掲載場所であるから、最後までお読みくださった作曲家の比率は高いと思う。

そういう皆さんが、この点、どう思いなさるか?

もう半世紀近く前も、「鑑賞するうえで好きな曲は好きな曲として、自分はそれとは全然別種の曲を書いている。空しいことではあるが」という大家の声を聞かされた記憶がある。

また、藝大作曲科のペイペイな女の子(失礼!)も「作曲家の中にはどんどん曲を書ける人もいるけれど、本音は『何を書いたら良いかわからない』んじゃないかしら」と言っていた。

少なくとも日本の現代作曲界はとっくの昔から白けているということであろう。手を変え品を変えなどの応急処置は随時施されて来たが、下げ止まっている保証もない。

先ほども言った通り、デザイン的作品の増加により、音楽が得意とする内面参加のお教室、研究室、創作室は閑古鳥が鳴く状況である。

想像するに、若い人(作曲家)の本音は「内面なんてカッコ悪い!」というものかもしれない。

著しきは「内面って何のこと?もしそんなものがあるとしたら、ネットで汚い文言を吐き出す穴みたいなもの?」と来るかもしれない。

一番健全で一般的なのは、彼らに言わせれば「私利私欲、と社会的自己実現」といったところだろうか?

人の中に住み着いて、その人の心を養い続けるような作品、たとえば松村禎三にとっての虚子のあの俳句に匹敵するような楽曲を実現することは本当に難しい。 

2015.9.29

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なお、作曲コンクールに限らず、物事を本気になって判定するのは、大変な緊張を要することでありましょう。

緊張好きの方のために、次の文章をご用意いたしました。

 

二)ネット上でのLM裁判への誘い

私はもともと国民が裁判に参加する裁判員制度に賛成の意を表していた(ネット上ではない)。裁判される側のことは今回は置くとして、裁判する側について考えたうえでのことだ。

人間にはそういう能力が-不足面に拘り出したらきりがないが‐大なり小なり備わっているし、欲求についても同じことが言えよう。だったらそれに解発の機会を与えることはなによりも国民のためになる。また、裁判員を頼まれた人々を通して我々国民に自由が与えられることにも成る

ところが今回、私が一般の方々に”裁判参加”“”審判参加”を期待して「八木哲学の生体解剖からロクリアン哲学へ」をネット上に掲げたところ、読者の感想文的反応はあったし、直接にメールを下さった科学史家(兼日曜作曲家)もおられた。その内容は実に好意的で細かに賛同の意を表するものであった。ただ、「八木雄二対ロクリアン正岡」に判定を下す文には出会えていない。もう4週間以上(9月末日現在)たっているにもかかわらずである。

これは大方の日本人は議論も裁判も好まない、と言うことの現れであろうか。すなわち、「自由への恐怖」「自由への怠慢」の心が働いているということであろうか。

今回私が演出している参加の自由、の自由の質は、「身勝手」ということからほど遠く、

「私利私欲」ということからもほど遠く、「意識本来の客観性の解放かつ開放」というタイプの質である。

どうか、この血生臭さのまるでない高尚高雅な裁判にご参加いただけることを切に願い上げるものであります。

2015.9.13LM

 

三)演奏者の皆さんへ 

「時を貫く“南無阿弥陀仏”」について、

「時を貫く」については、

俳句の好きな方ならば、作曲のフランス楽派の草分けみたいな池内友次郎大先生のお父さんである虚子の名句である次のものが連想されましょう。

*去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如きもの

これを読めば、「そうか、暦を貫く時間のようなものを詠んでいるんだな」と解釈する人が多いと思います。
ところが、「その時間南無阿弥陀仏貫く」のだというのがこの曲のタイトルです。

仏教で、また日本で最も有名な念仏“南無阿弥陀仏”ですが、信者は毎日喜びをもって、しかも熱心な方々は一万回以上も唱えるのだと申します。

その目的は端的に言えば、仏と一体になる為ということです。
皆さん、地獄行きを避け、極楽浄土に行こうと必死なんですね。

ところで、ベートーヴェンのジャジャジャジャーンもあの第一楽章だけでも何回繰り返されているでしょうか?あれも24時間頑張れば数万回にのぼることでしょう。

そして、この曲は歌詞では「ナムアミダブツ」、リズムでは7拍子式ながら

「ジャジャジャジャーン」が無数に繰り返されます。

そのため、この曲の副題は「ハロー!アイム ロクリアン ベートーヴェン」
絶対音感をお持ちの方であれば、その具体的な理由を見つけられるかもしれません。

ノーベル賞で一躍脚光を浴びているバクテリアですが、私たちの体の中には100兆匹(500種類)生息、共生しており、人間の細胞の数60兆よりも多いとのこと。だから人間は「超有機体」ということです。

このノーベル賞受賞の縁起の良い機会に、我々も自分の事を「そうなんだ」と見直し、大村先生じゃないけれど、バクテリアにもフル参加してもらい、大衆音楽にも負けない広がりある音楽を形成して行きたいものです。

9090MO4649!

2015年10月7日 第一回合同練習を前に 作曲者ロクリアン正岡記す。

 

四)

作文と文章、はたまた作曲と音楽の軌跡の奇蹟についての実例と説明

 

日本現代音楽協会主催のアンデパンダン展(11月18日/19日)の前座(前夜祭)として、

ことしも「新人賞本選会」が開かれる。

 

実体なき「現代音楽」という概念。

だけど、名前が全然ないよりはマシというところは、人間と同じ。

でっち上げでもよい、私のこと「何」とか呼んで!

そしたら「私たち」というグループに帰属できて、さびしくなくなる。

 

そんな!

ヘレン・ケラーじゃあるまいし、

「藁(わら)をも掴む溺れ人」

であることなど止めて、

自分で藁を編み出すことです。

 

蚕(かいこ)の繭(まゆ一個から、一キロから二キロメートル、実に三つの駅を繋げるだけの糸が引っ張り出せるという感動的事実を知った(遅ればせながら)日に。

 

そういえば、ロクリアンよろしく

「シー」と無声音を立てて

メロディー線を引き伸ばしてゆく吾輩は、

人間蚕(ニンゲンカイコ)か。

 

なぬ、「ロクリアンさん。そんなことを言っていると、あなた本当に『現代音楽』から解雇(カイコ)されちゃうわよ」とな。

 

以上、ロクリアン正岡 というよりも、

ロクリアン正岡を弄(もてあそ)ぶセイレーン(古希)による。

「あ、そういえば私は今年12月04日で“古希”を迎える!」

これは、来てますね。 2015年(平成27年)10月29日夜 彼岸氏不死身 L・Sにて

 

この追記三)についての追記

自分ながら思うが、この風から風、また別の風へと渡り歩くような文章、思考、意識変化。これは読者の中にも感じ取られる方がおられると思うが、まさに二年前の作品である弦楽オーケストラ曲「異次元航路」(動画掲載)のそれと同じものである。

その時も次から次へと未来から自分の方へと入り込んでくる楽想に身を任せるやり方で、いつの間にやら出来てしまった、という作曲終了時の実感があった。

それは、モーツァルトでもあるまいし、必ずしも褒められたことではなく恥ずべきことであるかもしれない、と今でも思っている。上の文章についても同様の事が言える。

 

今回の念仏楽曲「時を貫く~」は、「異次元航路」とは違って力作型であるし、音楽を聴いてもタイトルに相応しく「大地を踏みしめてゆく」といった力動性、力動感が得られるものを、作曲当初の構想段階から志向していた(前にも言った通り、冒頭部分を別にして、始めの3割ほどの部分は六年程前のもの)。ただし、少々のぼせ上りフワッとした部分も敢えて用意しており、それこそが(本文に書いてある)「ミワノヨロコビ」という、始めから8分過ぎからの10秒ほどの個所である。

 

いずれにしても、本演奏も動画配信の予定で、このような観点からの「異次元航路」との比較は、「作曲の不思議」「人間意識の不思議」を解明しようとする向きには役立つ可能性がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お断り:なお、特に本文中においてであるが、ところどころにある話の本筋から外れた部分や注意書き部分は文字を小さくするなどしておいたが、それはネット上には反映されていない。

読み苦しい点、お許しください。

二〇一五.10.30午前 LM

 

五)

うねる!

現音の∞マークさながらにうねる

ロクリアン脳のメビウスの輪的振る舞い

 

何をかますかこのご婦人!

「私、その時、毛という毛が自然脱毛したんです。あそこの・・・・」

この女性がいなかったらサクソフォーン八重奏曲「ライオン[←来音]」は存在しなかったかもしれない、なんて今風の言い方はしない。「しなかった!」と正直に言い切ります。といって委嘱されたわけでもない。彼女から、上記のあらぬほどの凄い音が私に飛んで来たのだ。といって・・・そこには数人の男性も同席していた。その人たちも驚きはしたのだろうが、私には、別に頼みもしないのに彼女が突如「我が曲想のモデル」として立ち現れたような気がしたのだ。「瓢箪から駒」的なところもあるが、これほど人と人との出会い(しかも初対面)が創造にもろに直結する例はなかなかあるものではなかろう。

金や人間関係の介在も一切なし。

これは純粋創造の典型例でもある。

ユーチューブにあります。ご検証のほどを!!

 

インターネットのロクリアン化は可能か!

なお、これをもって、私はフェイスブックにおける「意識のグローバリズム」を提唱したい(「お前のは人々を暗に愚弄〈グロー〉しているようなものだ」とは言うまい。わたしはそこまで下品ではない!)。

というのは、実名が出たり誰か特定できる場では、読み手の意識へのパンチもなく、迫力不足。なのに、匿名だと罵詈雑言とか威張りとか、自己卑下だとかデタラメとか滅茶苦茶とか、はたまたどうでもよいこと、がほとんどに近い。いや、脅しとかキョウゲンとか犯罪につながるようなものすらある始末だ。

 

私は「グローバリズム」あるいは「グローバルである」ということを輝かしてみたい。これは誰かがやり出すべき仕事なのだ。これはネットには実に打って付け!やりやすいことなのだ。

インターネット機能を輝かすためでもある。

「目立とうとして悪いことをする」という輩は何と言っても男性に多く、そのためにネットを使おうとする。そんな方々は、さすがこの我々のグループ(コミュニティ)にはおられぬが、ほかではすぐに見つかる。(破壊は瞬間でも可能だが、創造は要持続。なのに、、、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」は、「捨てばち台詞」だ。「捨てばち」といえば、彼の多くの作品がそれであり、だから男っぽい。「彼の人生が爆発だった」という印象ではある。ああ、安易なこった。彼のファンは猛省すべし!)

 

このようなことを言わす野村良雄は私の背後霊か?

(私の愛した美学者の野村良雄が藝大の教養科目「音楽美学」(聴講生は大勢)で繰り返し言っていた言葉に次のようなものがある。

「『私は何も悪いことしていない』『何の落ち度もない人を・・』などというが、『良いことをしない』というのは悪いことなんです」と、名前「良い雄」に相応しくしばしば語っていた。そこには元学部長でピアニストの植田克己も、また作曲家の近藤譲も席にいたのだ。〉

 

自転車を 引き摺り歩く 撫子に 時も憩うや 大和の心月

とはいうけれど、

彼女たちには、むしろ雌叫(めたけ)んでほしい!

本当にネットは“グローバルマシーン”とすら言えるもの。

それはまともに扱ってやらねばカワイソウ(あるいは、失礼)というものだ。せっかく健全で建設的能力を持っているのだから。

よく、オバア様方が自転車を引きずって歩いておられる。

私の頭の中では「そんな使い方をされたんじゃ自転車がかわいそう。自転車に失礼じゃありませんか?」とガンガン鳴る。

それと同じことで、もっと素敵な活かし方、「何のこと?」「ネットの事、インターネットの事」

の活かし方があると思います。

それで、彼女の雄叫び、いや失礼“雌叫び(メタケビ)”を受けて来音⇒「ライオン」を作曲したのかもしれないこのLMことロクリアン正岡なのです。

ロクリアン脳は「メビウスの輪」*的思考を本務、とする。

しかるに「この世の原型は螺旋である」―ゲーテ

 

それでは皆様、来る11月18日夜、東京オペラシティリサイタルホール(あの「善霊か悪霊か」も、ここで初演されたものです)でお会いしましょう(ユーチューブにパソコン音源の「その曲:「時を貫く“南無阿弥陀仏”」をアップしています。写真も楽想変化に合わせて入れ代わります。現場での体験をより濃いものにするために、意識キャンバスに下塗りをなさっておいてはいかがでしょうか?

逆に、現場で“かような”音響をいきなりかまされては、びっくりしているうちに終わってしまうことが危惧されます(「老婆心ですか?」)

 

なお、日本現代音楽協会のマークは「無限」か「メビウスの輪」か?

とにかく私の知らぬ間のこのマークの採用とは、俗にいう共時性の顕現か。

やはりグローバルな意識、個々の人間を超えた遍在(偏在ではない)する意識、というものは有る、それも刻々働いているのではなかろうか。

こうして、貴男にも、貴女にも、働きかけようとしているじゃぁありませんか?!?!?!?

(これ、「不可知の何様」のウィンク、かなかなかなかなか・・・・・・・?――――――― )

 

なお、このような曲、戦いなくして合同練習を続け成果を上げることは出来ないというものです。

合同練習がこんなに熱いとは!まさに””ガチ””です。

「現音」史に残すべく、取材の必要あり、です。

 

それにしても、本当に演奏家って素晴らしいものですね。

あの体、あの心、あの頭、いったいどうなっているんだろう?

 

でも、そうでなければこんな大変な仕事、完遂は無理なのだろう、と痛み入りつつ感心することしきりです。

2015年(平成27年)」11月7日朝 ロクリアン・スタジオにて

 

六)

本番直前の17日深夜未明、演奏者の一人、會田瑞樹氏のフェイスブックへの次の投稿を発見した。

11月18日、現音アンデパンダンが迫って参りました。ロクリアン正岡作曲/念仏楽曲《時を貫く”南無阿弥陀仏”》でマリンバを演奏致します。高浜虚子の俳句「去年今年 貫く棒の如きもの」に強い霊感を得た作曲者。「南無阿弥陀仏」を執拗にバリトン歌手が咆哮し、クラリネットが高音を基調に暴れ、ファゴットが飄々と現れ、チェロがまろやかに歌い、そしてマリンバが重低音を充分に響かせ歌い上げます。強い祈りと希望に向かって、中間部では誰もが知っている人類への”応援歌”も挿入されます。数ヶ月前から譜面を頂き、様々にイメージを膨らませる稽古を続けました。とても楽しみです。チケットはお気軽に會田までお問い合わせください。

 

以下は、それに対するフェイスブック用のLM応答です。

 

「現代音楽」という言葉(概念)とダブルバインド(米の文化人類学者、グレゴリー・ベイトソンによる造語、概念)

今、起きて開けてみるとこの文章。

頼みもしなかったのに!

さすが「影の指揮者」というか、音楽の脈動係り“リズム”楽器奏者ならでは!

こういう人がいずれはコンサートをプロデュースしたりするようになるのだろう。とにかく「演奏家も“文化の担い手”」だという意識を強く持ってほしいと日頃から願っている私としては、願ってもないことだ。

と、今突然、「『現代音楽は、別に、文化の担い手なんかじゃない!』という空気が現代音楽界を覆って久しいのじゃないか?」という観念が意識に浮上してきた。

作曲と言っても色々な分野があるが、「文化の担い手」という意識がもたれる作曲分野は少なくないと思う。

ところがどうです?現代音楽分野の作曲家の皆さん!

「あなた方は文化の担い手でいらっしゃる」と言われて、ピンと来なかったり照れたりしない作曲家はほとんどいないのではないだろうか。

「~担い手」というと責任ある部署、地位に立たされ、その役目を負わされている感触があり、これほど、当の作曲家自身に限らず、演奏者から鑑賞者までがもつ「現代音楽のイメージ」からはずれる言葉、概念、視点はないだろう。

「御かみ」文化省が助成を渋る理由、少なくとも遠くて強い原因はここにこそありそうだ。

強い未来志向の理念にでなく、まさに“その刹那”の空気に従うのが得意な日本らしい現象ではある。

こんな分野である現代音楽でも、作曲家個々の気持ち*は「独自の物を作ろう」とする指導原理で貫かれているのかもしれない。すくなくとも作曲する立場から言えば、それこそが現代音楽の魅力であるはずだ、

ところが、そもそもの「現代音楽」が、「別に文化の担い手ではない!」という前提をあてがわれているとしたら!!―「新婚さんいらっしゃい!」の桂三枝じゃないが、腰が砕け倒れこんでしまう―要するに腰砕け

有ると思っていた「独自のものを!」という高邁な精神も、幽霊さながらとたんに薄れ消滅してしまおうというものだ。

ああ、もともと存在すべくもなかった幽霊精神「独自のものを」。

これを「気持ち」悪い*と言わずに何と言う?

「現代音楽」という恐ろしいダブルバインド。

それ―この忌まわしきもの―を解消するのは誰?

注)なお、この場合の「ダブルバインド」は、その元来の意味を拡大解釈したものです。構造としては正規のDBではないが、機能としては似ております。

2016.11.17深夜未明 LM

 

 

 

 

 

 

 

 

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